頼朝と義経

源頼朝

  1147年4月8日、源義朝の三男として尾張国熱田(現在の名古屋市
  熱田区)の熱田神宮西側にあった神宮大宮司藤原季範(すえ
  のり)の別邸(現誓願寺)にて生まれる。幼名は鬼武者、または
  鬼武丸(おにたけまる)。
   父である源義朝の直系は清和天皇につながる(臣籍降下)。
  母は藤原季範(すえのり)の娘の由良御前(ゆらごぜん)

  父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で
  以仁王(もちひとおう)の令旨を受けると、北条時政
  北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠と
  して関東を制圧する。
   弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・
  源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、
  奥州合戦奥州藤原氏を滅ぼす。
  1192年に征夷大将軍に任じられる。

 

源義経

  清和源氏の流れを汲む河内源氏源義朝の九男として生まれ、
  「牛若丸」と名付けられる。
   母・常盤御前は九条院(藤原呈子(しめこ))の雑仕女(貴族
  に仕える召使)であった。(兄の頼朝とは異母兄弟

  父は平治元年(1159年)の平治の乱で謀反人となり敗死する。
  その係累の難を避けるため、数え年2歳の牛若は、母の腕に抱かれて
  2人の同母兄・今若と乙若と共に逃亡し大和国奈良県)へ逃れる。
   後に常盤は公家の一条長成に再嫁し、牛若丸は11歳の時に
  鞍馬寺京都市左京区)へ預けられ、稚児名を
  「遮那王(しゃなおう)」と名乗った。
  やがて遮那王は僧になることを拒否して、鞍馬寺を出奔し、
  1174年3月3日桃の節句(上巳)に、鏡の宿に泊まって自らの手で
  元服を行い、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍藤原秀衡(ひでひら)を
  頼って平泉に下った。
   1180年8月17日に兄・源頼朝伊豆国で挙兵すると、その幕下に
  入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。
   秀衡から差し向けられた佐藤継信(つぐのぶ)・忠信兄弟等およそ
  数十騎(有名な騎馬隊)が同行した。義経富士川の戦いで勝利した
  頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で涙の対面を果たす。
  頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼(のりより)に遠征軍の指揮を
  委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の経営に専念する
  ことになる。
   源平合戦の最中、義経は頼朝の周旋により河越重頼(かわごえ
  しげより)の娘(郷御前 頼朝と義経が対立したのちも義経
  逃避行に従い、最期を共にした女性とされる)を正室に迎えた。

 

奥州藤原氏

  前九年の役後三年の役の後の1087年から源頼朝に滅ぼされる
  1189年までの間、陸奥(むつ)平泉を中心に、東北地方一帯に
  勢力を張った藤原北家の支流の豪族。藤原北家秀郷(ひでさと)流を
  称した。初代当主は藤原清衡(きよひら)
   奥州藤原氏が実際に藤原氏係累であるかについては、近年の
  研究では藤原経清(つねきよ)について、1047年の五位以上の
  藤原氏交名を記した『造興福寺記』に名前が見えており、当時の
  藤原摂関家から一族の係累に連なる者と認められていたことは
  確認されている。

  清衡は、朝廷や藤原摂関家砂金や馬などの献上品や貢物を欠かさな
  かった。そのため、朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの事実上の
  奥州支配を容認した。
   奥州藤原氏は、中央から来る国司を拒まず受け入れ、奥州第一の
  有力者としてそれに協力するという姿勢を最後まで崩さなかった。
  そのため奥州は朝廷における政争と無縁な地帯になり、奥州藤原氏
  奥州17万騎と言われた強大な武力と政治的中立を背景に、源平合戦
  最中も平穏の中で独自の政権と文化を確立することになる。
   その政権の基盤は奥州で豊富に産出された砂金と北方貿易であり、
  北宋沿海州などとも独自の交易を行っていたようである。
  (1124年に清衡によって建立された中尊寺金色堂は有名)

  秀衡は平治の乱で敗れた源義朝の子・源義経を匿い、1185年に、
  源頼朝に追われた義経は秀衡に再び匿われた。
   秀衡は頼朝から出された義経の引渡要求を再三再四拒んできたが、
  秀衡の死後、息子の藤原泰衡(やすひら)は、頼朝の要求を拒み
  きれず文治5年(1189年)閏4月義経を自殺に追い込み、義経の首を
  頼朝に引き渡すことで頼朝との和平を模索した。(表向きの歴史)

  しかし、関東の後背に独立政権があることを恐れた源頼朝は、
  1189年7月、義経を長らく匿っていたことを罪として奥州に出兵。
  贄柵(秋田県大館市)において家臣の造反により泰衡は殺され、
  奥州藤原氏は滅んだ。

 

※ここまでは表向きの歴史であるが、実際は義経は生きて北海道に
 渡った記録が残されている。頼朝は海軍(軍港)を増強していた
 痕跡もあり、このときすでに朝廷(裏天皇組織)とも連絡を密に
 しながら、大東亜共栄圏』を目指していたが、道半ばで頼朝は
 暗殺されてしまう。
  そして、兄・頼朝の遺志を継いだ義経が、北海道から大陸へ渡り、
 再び強力な『騎馬隊』を結成してモンゴル帝国を築いた。
 (後の『元』王朝)
  そう、義経=チンギス・ハン説』である。


  次回は、歴史の裏側に隠された、頼朝と義経が目指した
  大東亜共栄圏』=モンゴル帝国元王朝に迫る。

 

 

       ~ つづく ~

源平合戦

源平合戦とは、武家の棟梁である源氏平家との間で、
1177年から1185年にかけて日本全国で起こった数々の
戦争の総称。
(1156年の保元の乱から、1192年の源頼朝征夷大将軍への
就任までの時期を指す事もある)

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)」と
呼ばれる事も。

 


  ・1156年
    保元の乱が起こる。
    「崇徳(すとく)上皇」と「後白河(ごしらかわ)天皇」の
    争いに源氏、平家が加担する。
     天皇側が勝利し、平清盛源義朝は、それぞれ恩賞を与え
    られた。


  ・1159年

    平治の乱が起こる。
    保元の乱の戦後処理に不満を抱いた藤原信頼源義朝が挙兵。
    平清盛の反撃により、藤原信頼源義朝は敗死。


  ・1160年

    源義朝の子、源頼朝が捕らえられ伊豆へ流される。


  ・1180年

    平清盛の娘が産んだ「安徳(あんとく)天皇」が即位し、
    平清盛天皇の外祖父になる。
     「以仁王(もちひとおう)」が平家討滅の令旨を発し、
    源頼朝木曽義仲が挙兵する。


  ・1181年

    平清盛が熱病によって亡くなる


  ・1183年

    「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」が起こる。
    「源義仲」軍が平家軍を破り、京を制圧する。
    平家は安徳天皇を連れて都落ちをする。
    京都にいた後白河法皇木曽義仲が対立する。


  ・1184年

    宇治川の戦いが起こる。
    源義経木曽義仲を撃破する。

    一ノ谷の戦いが起こる。
    義経が断崖を逆落としして急襲し、平家軍を攻略する。


  ・1185年

    屋島の戦いで源氏が勝利する。
    弓の名手・「那須与一(なすのよいち)」が扇の的を射たことで
    知られる。

    壇ノ浦の戦いで源氏が勝利する。
    この戦いで平家は事実上滅亡し、源平合戦に終止符が打たれる。


  ・1192年

    源義朝征夷大将軍に任命される。

 

 

【あまり知られていない人物と秘話】


  平時子(たいらのときこ)』

    「平時信(たいらのときのぶ)」の娘で、平清盛の後妻(継室)。
    「二条(にじょう)天皇」の乳母となるなど、清盛の
    宮中工作の橋渡し役
     清盛の死後、平家一門を後見するが、壇ノ浦の戦いで平家が
    敗れると幼い安徳天皇を抱き入水して果てる(表向き)。


  『安徳(あんとく)天皇

    「表の歴史」では、平家が壇ノ浦で敗れた時、身投げしたことに
    なっているが、平氏の一門(後の小松家)とともに四国に流れ
    ついた。
     徳島県三好市東祖谷栗枝渡(みよししひがしいやくりしど)に、
    『安徳天皇』が逃れて隠れ住み、同地で崩御したという。
    「栗枝渡(くりしど)八幡神社には、安徳天皇を火葬した
    「安徳天皇御火葬場」があり、遺骨を御神体として祀って
    いる(『美馬郡誌』)。
     また、高知県香美市にある「高板山(こうのいたやま 旧字は
    皇居山)」は「皇の居た山」に由来すると言われ、安徳天皇御陵跡
    ある。この高板山の山道は、安徳天皇を助け、守ってきた平家の
    一門(小松に姓を変え、家紋も「浮線蝶(ふせんちょう)」に
    改めた)が、今現在も守り続けている。


  常盤御前(ときわごぜん)』

    「近衛(このえ)天皇」の中宮に仕えた女官で、源義朝の側室となり
    牛若(のちの源義経)らを産む。義朝の戦死後、子らを守るために
    平清盛の妾(めかけ)となったともいわれ、その後
    「藤原(一条)長成(ながなり)」に嫁いだとされている。


  巴御前(ともえごぜん)』

    源義仲の乳母の子で、「中原兼遠(なかはらのかねとお)」の娘。
    義仲の側室となり、1180年の義仲の挙兵に従軍。
    戦功著しい猛将だったともいわれている。


  静御前

    白拍子(しらびょうし 平安朝末期に起こった歌舞。また、それを
    舞う遊女)の「磯禅師(いそのぜんじ)」の娘で、「静御前」も
    京の「白拍子」だった。
     源義経の側室となり、平家討滅後、頼朝と不和となった義経に従い
    京を脱出する。追手に迫られ吉野山中で別れた後、囚われて鎌倉に
    送られる。頼朝から舞を命じられ、義経を恋い慕う踊りを披露した
    ことでも知られる。


  北条政子

    北条時政の娘で、伊豆配流中の頼朝に嫁し、2代将軍・頼家、
    3代将軍・実朝を産む。実朝が暗殺されると、京から4代将軍と
    なる「九条頼経(くじょうよりつね)」を招き自ら後見人となった。
     尼将軍とも呼ばれる。
    (実朝暗殺は、北条政子が黒幕という噂もある。後日のブログで
    公表予定。)

 


かくして、武士を中心とした時代が始まった。

 

         ~ つづく ~

 

平安時代の貴族と武士の誕生

平安時代は、華やかな貴族文化が花開いた時代でもあった。

 

【貴族】

  具体的な呼び名が登場するのは、701年に制定された「大宝律令
  からだった。五位までの官位のものたちを「貴」という言葉で
  読んだことから「貴族」という概念が誕生したと考えられている。

  平安時代には遣唐使が廃止され、日本古来の美的感覚をもっと
  盛り上げようという気運が高まっていた。
   そうした背景から、国風文化が興り、それは住居など建築物にも
  影響していった。貴族の中でも特に位の高いものたちは、
  寝殿造り」という特別な屋敷に住んでいた。
   南向きの縁起や日当たりの良い好立地に寝殿を配置し、家長と
  なる男性が主に暮らしていた。東対、西対、北対と小振りな建物を
  行き来するために渡り廊下が敷かれ、月宮釣りをするための
  釣殿(今でいうところのバルコニー)と呼ばれるものが設置されて
  いた。寝殿造りは現代においても文化遺産として多数残されている。

  平安時代の貴族というのは、いまでいうところの政治家や公務員の
  ようなもので、お役所である宮中に勤務し、国政に関わることや
  事務的な雑務をしていた。
   ただし、現代の政治家や公務員とは違って、当時の貴族たちは
  それほど仕事熱心とは言えなかったようだ。(午前7時ごろに
  出勤し、およそ4時間程度で終業)
   そして自宅に戻ってお昼を食べて、ゆっくりと夕飯まで待ち、
  食べて眠くなったら寝てしまう…そんな生活を送っていた。
   そして、この『空き時間(今風に言うと、アフターファイブ)』
  こそが、貴族たちが才能を開花させていく貴重な時間でもあった。
  この『空き時間』に和歌を詠んだり、蹴鞠(けまり)を蹴ったり、
  月見をしたりと、一見遊んでいるように見えて実は自分磨きを
  していた(源氏物語枕草子などの芸術文学などが、花開いて
  いった)。

  ≪代表的な人物≫

    紫式部(むらさきしきぶ)
     恋愛小説の決定版とも言える『源氏物語』の作者。

    清少納言(せいしょうなごん)
     随筆として名高い『枕草子』の作者。

    藤原道長(ふじわらのみちなが)
     大きな権力を持った「藤原氏」の中で、もっとも栄華を
     極めた人物。
      道長は右大臣、左大臣を経て、天皇の生母の勧めもあって
     摂政にまで上り詰めた。(道長は、自分の娘を次々と天皇
     后として差し出した=「政略結婚」によって成り上がった
     人物でもあった)
      だが、藤原氏が権力を独占する陰で、衰退していった(表
     向き)のが「橘(たちばな)氏」だった。

    橘(たちばな)氏
     橘氏は、「縣犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)」が、
     「橘宿禰(たちばなのすくね)」の氏姓を賜り「橘三千代」を
     名乗ったところから始まる。
      三千代と「敏達(びだつ)天皇」の後裔である
     「美努王(みぬおう)」の間に生まれた子、
     「葛城王(かずらきのおおきみ)が臣籍降下した
     橘諸兄(たちばなのもろえ)」は、橘氏の中で最も有名
     人物である(左大臣まで昇進)。
      さらに諸兄の後も、諸兄の子(奈良麻呂 ならまろ)の
     孫娘(嘉智子 かちこ)が嵯峨天皇の「檀林(だんりん)皇后」
     になると、橘氏は再び躍進していった(藤原氏との対立も)。

     ※嵯峨天皇」の子が臣籍降下して誕生したのが「源氏」
      ということは、橘氏は源氏の「祖」でもある。
      
      橘氏藤原氏との政争(表向き)で衰退し、朝廷(表の政治)
      から姿を消した。(筆者の家系の言い伝えでは、「平安」を
      祈願して遷都した『平安京』の名の通り、藤原氏に政治を
      ゆだねて身を引くことが、天皇の意に沿うことと考え、
      橘氏は「橘姓」を捨てて、故郷の「吉備国」に帰郷した。
       このとき、家紋も「橘紋」から「浮線蝶(ふせんちょう)」
      に変えている)

 

【武士】

  平安時代も後期(終盤)になると、「武士」と言われる身分も
  誕生した。
   律令制度が確立され、武力・軍事力を行使するのは「武官」
  仕事だったが、「武士」という専門的先頭集団が生まれたことで
  時代は大きく変化していった。
   はっきりしておかなくてはいけないのが、平安時代までの
  「武官」とそれ以降の「武士」の違いについて。

  「武官」で有名なのが「征夷大将軍」に任命され大きな功績を
  挙げた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」
   彼は朝廷に使える官人であり、あくまでも役人にすぎなかった。
  律令制の中で生まれた(今で言う)公務員であり、蝦夷討伐では
  公的な仕事の一環として武功を挙げた。

  では武官から武士の時代に突入した平安時代末期、武士は、
  どのようにして生まれたのか?
   主に3つの学説が大勢を占めていますが、どれもが正しく、
  どれもが不十分と指摘されている。

  学説①
    地域を封建的に治める大農園主が、武装をした。
     ⇒ かなり有力な学説ではあるが、源氏や平氏といった、
       時代を動かした武士の起源を説明することはできな
       いという指摘もある。

  学説②
    家業として武芸を身につけていった専門的な武装集団があり、
    国家から認定された軍事的な下請け業者が起源とする説。
     ⇒ こちらも有力ではあるが、地方武士に関しては説明が
       つかない。

  学説③
    国衙軍制論と呼ばれるもの。
     平安時代の中期頃から、租税の徴収を朝廷から請け負う
    田堵負名(たとふみょう)という存在があった。
     武士の出現期、彼らは地域の田堵負名の命を与えられて
    いて、徐々に経済的な基盤を作り上げていって、領主とし
    ての体勢を獲得するに至った、という説。


  ≪源氏と平家≫
    なぜ源は「氏」で平は「家」なのか?

    本姓であるとは、皇族が臣籍(天皇の家来・仕える者)に
    下る臣籍降下」にあたって下賜された姓のこと。
     天皇や皇族は姓を持たなかった(戸籍がない)ので、
    臣下となる際に「姓」をつける必要があった。
    源姓を名乗った一族はたいへん多かったため、源家の総体と
    して源氏と呼ばれていた。

    一方平家とは、政権を打ち立てた平清盛とその一族、
    さらには仕えている者たちも含めた政権・軍事の一団
    ことをいう。そのため、平家の中には清盛らに仕えていた
    藤原氏や源氏の武士もいた。つまり、平家とは平氏の中の
    一部でありながら、平氏以外の外部の者も多くいたことに
    なる。これゆえ、平氏+他氏(藤原氏、源氏など)”
    集団を意味する「平家」と呼ばれるようになった。

    「源平の合戦」に至った両者の宿怨とは、このように臣籍に
    下りた氏族であるという、同等の格による強いライバル関係に
    因るところが根底にあったとされている。
     しかし、臣籍降下した皇族は、平氏においては、天皇
    孫以降の代が多かったことから、源氏の方が格上とする見方も
    あった。このことに因る優越感と劣等感のアンバランスさも、
    源平両氏の運命を左右したのではないかとされている。

 

          ~ つづく ~

 

平安京とエルサレム

平安京の名前】

  京都は、桓武天皇(737年~806年)が、780年に平城京(奈良)で即位後、
  784年には長岡京京都盆地の西部)へ遷都、のち10年後の794年には、
  平安京(京都)に2度目の遷都をされて以来、明治維新に至るまで
  1074年におよぶ首都だった。

  京都は、「桓武(かんむ)天皇」により、山城の地に新たな都が
  築かれた時、平安京(へいあんきょう)』と呼ばれていたが、
  これは「遷都の詔(みことのり)」の中に、民衆が新都を讃美して、
  このように唱(とな)えたとある。これは天皇と国家の永遠の平和
  祈願するものであり、一般には京(きょう)または都(みやこ)と
  呼ばれていた。11世紀末からは、平安京にかわる都の地名として、
  京都が使用されるようになった。

  日本書紀によると、わが国は、紀元前660年、初代「神武天皇」即位に
  よる大和の統一国家が成立して以来、常に天皇のもとに国として永く
  続いてきたので、京・都・京都といえば、それはただちに首都
  そのものを指した。 


   ※平安京と琵琶湖は、エルサレムと深いつながりがあった。

    平安京のあった京都の近くには「琵琶湖」がある。
    同様にイスラエルの「エルサレム」から少し北上すると、
    「キネレット湖」と呼ばれる湖がある。
    この湖は日本語ではガリラヤ湖と呼ばれ、
    イエス・キリストが福音を伝えた場所だった。
     このヘブライ語「キネレット」を訳すと、楽器の
    「琵琶」や「竪琴」を意味する。
     つまり、「琵琶湖」=「ガリラヤ湖(キネレット湖)」!

    一方、「エルサレム」は、ヘブライ語に訳すと「エル・シャラーム」
    となり、その意味は「平安の都(京)」
     つまり、『失われた10支族』が遠い故郷(古代イスラエル
    王国)をしのび、その理想郷を求めて日本の地(京都)に、
    「平安京エルサレム)」を遷都した!

 


【花見について】
  
  現在のように、「お花見」が桜を見ることを指すようになったのは
  平安時代のこと。
   万葉集の時代までに詠まれた歌における「花」はで、古今和歌集
  以降のものに出てくる「花」はとなる。実際、万葉集において梅を
  題材にした歌は110首、桜を題材にした歌は43首と梅が桜の
  倍以上になる。

  これは、梅と桜の原産地の違いからくるもので、桜は日本古来の花
  あるのに対して、梅は奈良時代に中国から遣唐使によって伝わったもの。
  そして、遣唐使が廃止されると共に「花」は桜のことを指すように
  なった・・・という経緯がある。

  また、奈良時代を見るお花見というのは、花の美しさを愛でると
  いうよりも神事としての意味合いが強く、厄払いのために行っていたので
  あまり楽しいものではなかったらしい。

  これが平安時代になり、花が「桜」のことを指すようになってから
  変わっていった。
   平安時代の歴史書日本後紀」によれば、嵯峨天皇が812年に催した
  「花宴の節」というものが、桜による「お花見」の起源とされている。
  「嵯峨天皇」は大の桜好きで、地主神社に毎年桜を献上させるほど
  お気に入りだった。

  視点を変えると、奈良時代から平安時代に代わるころ、
  日本の素性(『失われた10支族』の存在など)を隠す目的もあり、
  『うめ(有名な世界的秘密結社のソンボルを暗示)』から、
  『さくら』に変えたという説もあり(下図のシンボル参照。左が有名な
  シンボル、右が「梅干し」入りのおむずび)。
   
   ※「うめ」=「めた」「」の略語を漢字「」にあてたもの。
      縄文人は、人類史上最古の『石工職人』集団であり、
    その縄文人の子孫と大陸から帰還した渡来人(先祖は縄文人)に
    よって造られた国家が『日本』(世界最古の『石工職人(大工)』
    国家)。

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  また、余談であるが、「嵯峨天皇」の子孫を簡単に掲載しておく。

   嵯峨天皇 → 「源融(息子 源氏物語のモデルとも) →  

   吉田茂(吉田家へ養子) → 麻生太郎(孫 現在の副総理大臣)

 

 

        ~ つづく ~

『臣籍降下』と『源平』の誕生

臣籍降下
  
  臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、
  姓(かばね)を与えられて臣下の籍に降りることをいう。
   皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は、
  「臣籍降嫁(しんせきこうか)」とも言った。

  奈良時代の皇統(天皇の血筋)を教訓道鏡による「宇佐八幡宮
  神託事件」)として、平安時代には安定した皇位継承のため、
  多くの皇子をもうけることがよく行われた。
   しかし、実際に皇位継承できる皇子はごく少数に限られ、
  平安前期から中期にかけて、皇位継承の道を閉ざされた皇族が
  多数発生することとなった。また、皇親の中には国家の厚遇に
  かこつけて問題を起こす者もいた。
   これらの皇親に対しても、律令の定めにより一定の所得が
  与えられることで財政を圧迫する要因となったため、皇位継承
  可能性がなくなった皇親たちに姓を与えて、臣籍降下させる
  皇親賜姓(こうしんしせい)」が行われるようになった。

  特に桓武天皇は、一世皇親3名を含む100名余りに対して姓を与えて
  臣籍降下を行った。嵯峨天皇も多くの子女を儲けたが、父の例に
  倣って多くの子女に対して皇親賜姓を行った。
   臣籍降下して一、二代ほどは上流貴族として朝廷での地位を
  保証されたが、実際には三代以降はほとんどが没落して、
  地方に下向、そのまま土着し武士・豪族となるしかなかった。


  ≪与えられる氏姓≫

    臣籍に降下する皇族には、臣下であることを表す氏及び
    姓(かばね)が与えられる。

    『源氏』嵯峨天皇が、814年に自らの皇子3名に皇親賜姓を行い、
    『源氏』を授けたことに始まる。
     これは「魏書」の「源賀伝」に記録がある。
    嵯峨天皇は最終的には皇子・皇女32名を臣籍降下させ、
    源信(げんしん 天台宗の僧侶)、
    源常(みなもとのときわ 左大臣)、
    源融(みなもとのとおる 光源氏のモデルとも)が誕生する。
     また、源潔姫(みなもとのきよひめ 清和天皇の外祖母)は、
    人臣最初の摂政となった藤原良房(ふじわらのよしふさ 左大臣)の
    正室となった。

    一方、平氏は、淳和(じゅんな)天皇の時代の825年に
    桓武(かんむ)天皇第5皇子「葛原親王(かずらわらしんのう)」の
    子女(二世王に相当)に平氏を賜ったことに始まる。
     これは桓武天皇が築いた平安京にちなんだ氏である。

    ※これゆえ、源氏を「清和源氏平氏を「桓武平氏
     呼ぶこともある。

    なお、臣籍降下に際して、王の身位は当然に除かれるとは言え、
    名は改めないのが通常であるが、葛城王(かずらきのおおきみ)から
    「橘諸兄(たちばなのもろえ 後に朝臣(あそん)の姓を賜る)」
    などのように改める事例もある。


  このように『臣籍降下』によって、藤原氏と合わせて、
  後の政治の中枢を担う4大貴族源平藤橘が誕生した。

  この「源平藤橘」は、とくに平安時代から現在に至るまで、
  皇室も含めて、互いの血筋を絶やさぬように「養子縁組」
  「婿養子」「許嫁(いいなずけ)」などを繰り返してきた。
   ⇒ 4大貴族「源平藤橘」の末裔も、皇族も『同族結婚』を
     繰り返してきた閨閥(けいばつ)」である。

  このようにして、皇族を含む、貴族「源平藤橘」の血筋は、
  現在まで受け継がれ、守られてきた。

 

          ~ つづく ~

 

『桃太郎』と吉備王国から朝廷に仕えた『縣犬養一族』

飛鳥時代奈良時代平安時代にかけて、藤原氏とともに天皇を補佐し、
権勢を誇った『橘(たちばな)氏』がいた。
 今回は、その『橘氏』誕生の物語に触れて行く。

 

桃太郎伝説にもなった“温羅(うら)退治”】

  「温羅(うら)一族」は、吉備の外(日本国外)から渡来して
  吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして、「鬼ノ城」
  拠点として一帯を支配した。
   吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく、
  「崇神天皇(第10代)」は、「孝霊天皇(第7代)」の子で
  四道将軍日本書紀に登場する皇族の将軍)の1人の
  吉備津彦命(きびつひこのみこと)」を派遣した。
   討伐に際し、「吉備津彦命」は現在の吉備津神社の地に本陣を
  構えた。


  「温羅(うら)一族」

    百済渡来説・加耶渡来説・新羅渡来説など複数の伝承がある。
    「鬼ノ城(きのじょう)」を拠点とした鬼。
    渡来人で空が飛べた、大男で怪力無双だった、大酒飲みだった、
    等の逸話が伝わる。

     ・阿曽媛(あそひめ)=温羅の妻

     ・王丹(おに)=温羅の弟


  吉備津彦命(きびつひこのみこと)」=「桃太郎」

    本名は「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)」。
    第7代孝霊天皇皇子。『日本書紀』では四道将軍に数えられる。

     ・稚武彦命(わかたけひこのみこと)吉備津彦命の弟

     ・犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)、末裔に「犬養毅
       桃太郎の「犬」

     ・楽々森彦命(ささもりひこのみこと)
       「猿田彦」の末裔で、桃太郎の「猿」

     ・留玉臣命(とめたまのみこと)
       鳥飼に優れた家臣で、桃太郎の雉(キジ)

  「きびだんご」

    我が一族の言い伝え(筆者が父から聞いた話)によると、
    「きび」はイネ(陸稲)で縄文時代から自生していたらしい。
     (岡山県北部では、縄文土器からイネの化石が
     発見されている事実=物証がある)

    「きび」の稲穂は「黄金色」で、この「きび」を炊いて、
    「ぎゅっと」握ったのが「きびだんご」。当時の貴重な栄養源だった。

 

    【戦術と討伐】

      スサノオヤマタノオロチを退治するときにとった作戦に学び、
      大酒のみだった「温羅(うら)一族」に「楽々森彦命」一族が、
      宴を盛り上げる芝居(裸踊りなど)を披露し、宴を盛り上げた。
      (猿芝居の語源)
       そして、酔っ払って朦朧となったところを、背後から
      「吉備津彦命」の本体が襲いかかった。(ウラ切りの語源)
      かくして、「吉備津彦命」一行は、「温羅」の首をとり、
      「温羅(うら)」とその弟「王丹(おに)」を討伐(退治)した。

      ※白山神社
        岡山市北区首部(位置)。
        温羅が首をはねられた地という。
        「首村(こうべむら、現・首村)」の地名由来。
        境内には温羅を祀る鬼神首塚が残る。

 

吉備国から朝廷に】

  この「温羅(うら)」とその弟「王丹(おに)」退治の後、
  『犬』のように主君に忠誠を尽くす働きをした、犬養一族の中から、
  とくにヤマト王権から天皇を補佐してきた『縣犬養(あがたのいぬかい)』
  一族が朝廷に仕えるようになる。

   ※『縣(あがた)』
     大化前代、大和政権の直轄領。または国造(くにのみやつこ)の
     支配下の地方組織。

  そして、この一族から誕生した「縣犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)」が
  女性としては異例の出世をし、684年に宿禰(すくね)姓』を賜り、さらに、
  708年11月には、即位直後の元明天皇から宿禰たちばなのすくね)」姓を
  賜った。
   その後、「敏達(びだつ)天皇皇親」である「美努王(みぬおう)」に嫁し、
  「葛城王(かずらきのみこ 後の橘諸兄)」をはじめ、
  佐為王(さいおう 後の橘佐為)、「牟漏女王(むろのおおきみ)」を生む。

   「美努王」と離別した後は、藤原不比等」の後妻となり、
  光明子(後の光明皇后聖武天皇の妃)を生む。 


  また、「藤原不比等」と「橘三千代」の系図は、現在の『今上上皇』の
  直系に当たる。
 
  かくして、藤原氏とともに政治の中枢を担う、4大氏族源平藤橘の中の
  『橘』が誕生した。

 


             ~ つづく ~

『皇位をめぐる最大の危機』

時代は奈良時代
710年に平城京に遷都した後、女性天皇に近づき、
皇位を狙う僧侶が現れ、皇室の最大の危機が訪れる。


聖武(しょうむ)天皇」と「光明(こうみょう)皇后(藤原氏の出自)」の
間には、ついに男子が育たず、皇子がいなくなったことで、
天平10年1月13日(738年2月6日)に、「阿倍内親王」が立太子し、
史上唯一の女性皇太子となった。
その後、天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位し、
孝謙天皇(こうけんてんのう)」(女性天皇)が誕生した。

天平宝字5年(761年)、平城宮改修のために都を一時的に
近江国保良宮(おおみこく ほらのみや)に移した際、
孝謙天皇が病気を患った。このとき、孝謙天皇の傍らで
看病していたのが『道鏡(どうきょう)』であった。
 この看病がきっかけで、孝謙天皇道鏡は“恋仲”になり、
道鏡は朝廷で絶大な権力を持つことになる。

 


道鏡(どうきょう)】

  奈良時代の僧侶。俗姓から、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも
  呼ばれる。弓削氏は弓を製作する弓削部を統率した氏族。
  複数の系統があるが、道鏡の属する系統(弓削連)は、
  物部氏の一族とされる。

   道鏡は、文武天皇4年(700年)に 河内国若江郡(現在の
  大阪府八尾市)に生まれた。法相宗(ほうそうしゅう 唐時代
  創始の大乗仏教)の高僧・義淵(ぎえん)の弟子。
   病気を患った孝謙天皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、
  その寵を受けることとなった。
  763年、慈訓(じくん 奈良興福寺の僧)に代わって
  少僧都(しょうそうず 律令制の僧官の位の一つ)に任じられ、
  764年には「太政大臣禅師」に任ぜられた。翌年には法王となり、
  仏教の理念に基づいた政策を推進した。
   対して、道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対する
  反感もあり、藤原氏らの不満が高まった。
  
  かくして、朝廷内で絶大な権力についた道鏡は、皇位をも狙うように
  なる。宇佐八幡宮神託事件である。
   権力を利用して、宇佐八幡宮に脅しをかけ、
  大宰主神(だざいのかんづかさ)の「中臣習宜阿曽麻呂(なかとみの
  すげのあそまろ)」が、「宇佐神宮より、道鏡天皇の位につければ、
  天下は泰平になる』との神託があった」と伝えた。
   しかし、『和気清麻呂(わけのきよまろ)』が勅使として参向し、
  この神託が“虚偽”であることを上申したため、道鏡皇位
  就くことはなかった。(危機一髪で、天皇家の血筋が守られた)

 


和気清麻呂(わけのきよまろ)】

  備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。

  神護景雲3年(769年)7月頃に宇佐八幡宮の神官を兼ねていた
  大宰府の主神(かんづかさ)・「中臣習宜阿曾麻呂(なかとみの
  すげのあそまろ)」が宇佐八幡神の神託として、
  『孝謙天皇が寵愛していた道鏡皇位に就かせれば天下太平になる』
  と奏上する。(道鏡が「習宜阿曾麻呂」を唆して託宣させたともされる)
   「孝謙上皇」は神託を確認するため、清麻呂に「宇佐八幡宮へ赴き
  神託を確認するよう」に勅した。
   清麻呂は出発にあたって、道鏡から、吉報をもたらせば官位を
  上げる(大臣に任官するとも)旨をもちかけられたという。
   だが、清麻呂道鏡の脅しに屈することなく、主君(天皇)のために、
  命令を果たす気持ちを固めて八幡宮に参宮する。
   清麻呂が宝物を奉り「宣命天皇の命令)」を読もうとした時、
  神が「禰宜(ねぎ)」の「辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)」に
  託宣、宣命を聞くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて
  与曽女(よそめ)に宣命を聞くように願い出て、与曽女が再び神に
  顕現を願うと、身の丈3丈(約9m)の満月のような形をした大神が
  出現する。清麻呂は与曽女とともに大神の神託
  「天の日継(ひつぎ 皇位継承の意)は、必ず帝の氏を継がしめむ。
  無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、
  孝謙上皇(後の称徳天皇)へ報告した。
   道鏡と「恋に落ちていた」孝謙上皇は、清麻呂の報告に怒り、
  清麻呂因幡員外介因幡の国)に左遷するが、さらに
  「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させて
  大隅国(現在の鹿児島県の大隅半島屋久島、種子島奄美大島などを
  含む西海道の一国)への流罪とした宇佐八幡宮神託事件
   さらに、「口封じ」のため、道鏡は配流途中の清麻呂を追って
  暗殺を試みたが、急に雷雨が発生して辺りが暗くなり、殺害実行の前に
  急に勅使が派遣されて企みは失敗したともいう。
 
  だが、この清麻呂の『命がけ』の意志と言動が朝廷内の家臣たちに伝わり、
  清麻呂が朝廷に持ち帰った『大神の神託』を再調査することとなる。

  神護景雲4年(770年)8月に称徳天皇孝謙上皇)」が崩御して
  後ろ楯を無くした道鏡が失脚すると、9月に清麻呂大隅国から
  呼び戻されて入京を許され、翌宝亀2年(771年)3月に従五位下に復位し、
  9月には播磨員外介に次いで豊前守に任ぜられて官界に復帰した。

  清麻呂楠木正成などとならぶ勤皇の忠臣と見なされている。

 

産経新聞は、皇統の断絶という日本最大の危機を救った人物と評したことも。

もしも「和気清麻呂」が当初の神託通り、「道鏡皇位につかすべし」と
いう報告を持ち帰っていたら・・・道鏡天皇が誕生し、
天皇家万世一系ではなくなってしまっていた、
いやそもそも天皇制そのものが崩壊していたかもしれない。


さらに、明治天皇たっての『強い要望』もあって、東京都千代田区大手町の
大手濠緑地(皇居のお堀のほとり、気象庁付近)に、
和気清麻呂(わけのきよまろ)」の銅像が建てられた。

 ※とくに、明治以降、女性天皇を禁じてきた『最大の理由』は、
  和気清麻呂が命がけで持ち帰った大神の神託にある。
  「天の日継(ひつぎ 皇位継承の意)は、必ず帝の氏を
  継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」

  『帝の氏』とは、日本人固有の遺伝子Y染色体にしか存在しない
  “Dの遺志”ともいわれるYAP遺伝子)のことでもある。
   (ゆえに、皇位継承者は、男系に限られる)

『日本人』として、この事実は知っておいてほしいと筆者も願うところである。

 

          ~ つづく ~