『縄文時代』②

縄文人の暮らしとは、どんな様子だったのか?
三内丸山遺跡などから発掘された出土品や、言い伝えなどを参考に、
縄文時代の食生活や芸術(音楽など)について探っていきます。

 

縄文遺跡としては世界的にも有名な三内丸山遺跡から、
まずは、ウィキペディアよる引用から抜粋。

 八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は
 約20メートルで、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に
 広がっている。
  集落は住居、墓、捨て場、大型掘立柱建物、掘立柱建物、貯蔵穴、
 墓・土坑墓、粘土採掘穴、盛り土、道路などが、計画的に配置されている。
  遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、
 大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、
 さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと
 想定されている。
  また、他の遺跡に比べて土偶(板状土偶の出土が多く、
 日本最大の板状土偶などの土製品や石製品も多く出土している。
  この他にも日本各地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石、
 琥珀漆器翡翠製大珠などが出土している。
  翡翠糸魚川流域が主産地であるため、翡翠の出土は上越地域との
 交易が証明される。
  また平底の円筒土器や玦(けつ)状耳飾りなどは、中国大陸の
 遼河文明(興隆窪文化)との類似性が指摘されている。
  

 また、三内丸山遺跡からは魚介類の骨も多数出土している。  
 (http://www.city.aomori.aomori.jp/aomoriayumi/im025.html
  食料は魚・動物・植物など、自然の恵みを利用していた。
  はマダイ・ヒラメ・マグロ・ブリのほか、アジ・サバ・イワシ
  いった小魚もたくさん食べていたことから、現代と大きな違いは
  ないようである。
   縄文人が最も多く利用したのは、“森の恵み”である植物性の
  食料である。栄養価が高く、そのまま食べることのできるクルミ
  クリが大半であるが、トチもアク抜きをして加工されていた。
   また、ヤマブドウキイチゴ・サルナシ・ヤマグワといったもの
  も見つかっており、大量に出土したニワトコでお酒を造っていた
  可能性もある。
   そのほかヒョウタン・マメ・ゴボウ・アサ・エゴマ・ヒエなどを栽培し、
  食料としていたことも明らかになってきている。

 

  参考までに、縄文人の航海術を記載しているサイトが下記。
  ⇒ https://style.nikkei.com/article/DGXMZO83454460Q5A220C1000001/

 

さらに、縄文人は何を食べていたか — 新しい科学が明らかにする日常』
https://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/021/ss_1.html)によると、
1997年5月、鹿児島県上野原(うえのはら)遺跡から9500年も前の集落が発見された。
家は13軒で、1軒あたりの家族が4人だとすれば、50人近い人が住んでいたことになる。
食事は石で蒸したり、炉を使ったりして屋外で作っていたようだ。
 また、土器や石器のほかに土偶や耳飾りなど、祭祀や装飾のための品まであった。
上野原遺跡と同じ系統の土器は南九州に広く分布しており、
古いものでは1万3000年前まで遡る。
 これは縄文時代の始まりだが、すでにこれほど定住的な村が営まれていたのだ。
これまでのイメージを大きく覆す発見だった。
 この遺跡の土を分析すると、ハトムギのプラントオパール(植物のガラス質細胞)が
見つかり、その栽培の可能性が浮かび上がってきた。


また、約4,500年前の地層からイネの化石も発見されている。
詳細は、http://limestone.blue.coocan.jp/outdoor/iroiro/mikamo/mikamo1.htm
 『姫笹原遺跡』について
   植物には珪質化した細胞があって、これが植物が枯れても分解されずに
   土の中に残って化石となります。
    これをプラント・オパールと呼びますが、姫笹原遺跡では4500年前
   縄文中期のイネのプラント・オパールが発見されました。
   その当時は日本で一番古い米作跡とされていたのですが、
   平成11年(1999)に同じ岡山県岡山理科大学の通学路の朝寝鼻貝塚から
   6000年前 縄文前期のイネのプラント・オパールが見つかったため、
   一位の座を譲り渡しました。


縄文土器とコクゾウムシ
 縄文土器から「コクゾウムシ」の発見が相次いで報告されているが、
日本の考古学者は懐疑的な見解(縄文時代にコメはないという先入観)なのが残念。
ちなみに報告されているサイトは下記。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018112300343&g=soc

 

 


縄文から伝わる“うた”

 ・神々の詩https://www.youtube.com/watch?v=_qtfW6ihnPE


 ・アワのうた
  (https://www.youtube.com/watch?v=JddWbgJ-I-Y
  (https://www.youtube.com/watch?v=hvLZj428H0c

 「アワのうた」の誕生(現在の「50音(あいうえお)」の起源説も・・・)
  (http://www.hotsuma.gr.jp/awanouta.html

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  天神6代目のオモタル(男神)とカシコネ(女神)の時に、
  両神(ふたかみ)は全国を巡って農業開発に努力しました。
   民の糧も豊かに、政事も行き届いた平和な国です。
   残念ながら世嗣子に恵まれず、死後国は再び乱れ無秩序な状態に
  なっていました。
   そんな時、高天原(たかまがはら)から指名を受けた、タカヒト君(きみ)と
  イサコ姫はツクバのイサ宮で愛でたく結婚され、イサナギとイサナミとして
  即位し7代目の皇位を継承します。
   両神は先ず、葦原中国(アシハラナカクニ・滋賀)で、天神から
  引き継いだ矛(ほこ)をシンボルに生産力の落ちた農業を復活させます。
  同時に、国民の言葉が大層なまってお互い通じなくなったのを心配し
  正そうとされます。
   男神・女神は声を合わせ、カダガキ(楽器)をかき鳴らしながら、
  上 二十四音をイサナギが歌い、下 二十四音をイサナミが歌って
  音声の標準化を図り、農業普及と共に国の再建をしていきました。


 ・ユイポゥ(縄文時代の祈り歌)
  https://www.youtube.com/watch?v=h9AjFPLDjJk

 

 

縄文の楽器
  
 縄文人は神秘な音の世界を演出していた!』
 (http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/kasetsu/kasetsu24.html)によれば、
 有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)の文様は普通の土器と比較して
 一風変わった、踊るヒト形などに趣向が凝らされたり、全面が赤く
 塗られたりして、格別の扱いを受けている。
  有孔鍔付土器は大小の差ははなはだしいものの、基本的形態は良く似ており、
 土器の口にシカ・イノシシ等の皮を張って音を呼び戻したと考えられる。
 大小土器の差は大きければ大きいなりに、小さければ小さいなりに、
 音の変化を求めて使い分けていたのではないか!


  ※有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)
   ウィキペディアによれば、「現在の長野県から山梨県の中央高地において
   縄文時代前期末期から中期終末にかけて特徴的に見られ、
   中期に盛行し関東地方を中心に分布する。」とある。

 


縄文人の「おしゃれ」

 福島県川俣町小綱木の前田遺跡から、最も古いもので縄文時代中期
後半ごろに作られたとみられる多量の漆塗り製品などが出土。
  https://mainichi.jp/articles/20190327/k00/00m/040/028000c

縄文時代アクセサリーは、動物の骨・牙・角、貝殻、ヒスイ、木、
粘土などで作ったヘアピン、櫛(くし)、耳飾り、首飾り、
ペンダント、腕輪、足飾りなどがあります。ひろしまでも縄文時代
の石でできた耳飾りや勾玉が出土しています。
  http://www.mogurin.or.jp/museum/project/h23/accessory/

 


       ~ つづく ~