古代イスラエル王国の建国と滅亡

紀元前12世紀頃、モーセに率いられ、
エジプトから脱出したイスラエルの人々は、
山岳地帯からカナン地方(パレスチナに進出した。
これを描いたのが旧約聖書ヨシュア記と士師記である。
旧約聖書ヨシュア記と士師記によると、
預言者的かつ軍事的指導者である「士師」が相次いで現れて
イスラエル人全体を導いたとある。
ただし、旧約聖書の描く士師は、神の意志を伝えるシャーマン的な
女性、特定地域で住民同士の様々な問題の仲裁に当たった小士師、
一部部族の軍事的指導者たる大士師など様々である。
旧約聖書の編纂期に、これらの人々が
イスラエル全体を裁き導くカリスマ的軍事指導者」の系列として
まとめられたとみる必要がある。
ウィキペディアより引用)

 

    『士師の時代から王政へ』

紀元前1080年ごろペリシテ人が北部のガリラヤを制圧し、
その地域のイスラエル人が奴隷となると、最後の士師で預言者でも
あったサムエルは、サウルをはじめてのイスラエルの王として任じた。
この王はペリシテ人との戦いの必要からでた軍事的な指導者で
あった。

サウル王の死後、サムエルに見出されたダビデは南部のユダ族を
まとめて王となり、都ヘブロンを中心とした王国を建てる。
これに対して北部イスラエルの11支族はサウルの死後、
その子イシュバールを王とし、都マハナイムを中心に王国を建てた。
これら二王国の内紛は7年以上続くが、イシュバールの死後、
両国はダビデを王として認めることで和解した。
 紀元前995年頃、ダビデは両王国の中心に位置するエルサレム
エブス人を倒し、以後、ここを拠点にペリシテ人らを退け、
イスラエル王国(統一王国)を築いた。

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ダビデの死後、紀元前963年に、その子の一人ソロモンが国王を継ぐ。
ソロモンは引き続き国の体制を整え、諸外国との交易を盛んにし、
またエルサレムに大きな神殿(エルサレム神殿)を建てた。
この神殿は後世、“第一神殿”と呼ばれることになる。

 

    『ソロモンの時代』

ソロモンは、父ダビデが築いた国を継承し、その王国をより強大に
するために尽力した。
近隣王国と条約を交わし、政略結婚を重ねて自国を強国に育てあげた。
とりわけエジプトに対しては、終始礼を尽くし属国として振る舞い、
ファラオの娘を娶ることで良好な関係を築いた。
 ソロモンは外国との交易を広げ、銅の採鉱や金属精錬など大きな
事業を進めて国の経済を発展させ、統治システムとしての官僚制度
確立して国内制度の整備を行った。また、大規模な土木工事をもって
国内各地の都市も強化している。
 フェニキアの技術を導入してエルサレムに壮麗な神殿 (エルサレム
神殿) を建立したことでも有名である。これはイスラエル人の民族生活、
宗教、生活の中心となった。
 旧約聖書のなかの箴言(しんげん)』『雅歌(がか)』は、
かつてソロモンの手によるものと考えられていた。
 しかし、晩年は“主なる神の教え”以外の信仰を容認するように
なり、これがイスラエル人から偶像崇拝と批判されることで、
宗教的対立を誘発。国家分裂の原因の一つにまでなっている。


    箴言(しんげん)』と『雅歌(がか)』

箴言(しんげん)』の内容は教訓の集合で、様々な徳や不徳と
その結果、日常における知恵や忠告等である。
箴言』中の格言の多くはソロモン王によって作られたとされる。

『雅歌(がか)』男女の恋の歌であり、恋愛と男女の賛美を
歌い上げる詩であるため、扱いをめぐって古くから議論が
絶えなかったが、さまざまな経緯を経て正典におさめられた。

 

    『王国の分裂』

ソロモンの死後、部族間の抗争により統一体制は崩れ、
やがて10支族が“イスラエル王国(北王国)”として独立し、
南のエルサレムを中心とするユダ王国(南王国)”と分離する
ことになる。
 以後両国は盛んに争ったが、この戦争によって国力が衰えた。

 “北王国”の10支族
   ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族
   アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、エフライム族、
   マナセ族

 ユダ王国(南王国)”の2支族
   ユダ族、ベニヤミン族

 ※“レビ族”については、ヤハウェ(主なる神)に
  仕える祭司職で、領土が無く各地に分散して
  暮らしていたため、これを数えず他の部族で
  12支族とするのが一般的。

北王国の首都サマリアは、紀元前721年にはアッシリアによって
陥落した。
 アッシリアサルゴン2世は、サマリアイスラエル人指導層
などを奴隷として連れ去り、または追放して、その土地に
メソポタミアなどからの異民族を移住させた。
ここにイスラエル王国は滅亡する。
 このとき故地から引き離されたイスラエル人たちは、
後に「失われた十支族」と呼ばれている。
 またサマリアにはアッシリア支配下の各地からの移民が移り住み、
イスラエル王国の故地に残ったイスラエル人と移民との間に
生まれた人々がサマリア人と呼ばれるようになった。
サマリア人は、混血したことや、移民たちの信仰を“ユダヤ教”に
混交させたことから後に差別される存在となった。

一方の南部のユダ王国は、アッシリアの貢納国として独立を保った。
ヒゼキヤ(前715?-686年)が王のときに、アッシリアとの間に
戦争を起こすが、前701年にはエルサレムが包囲され陥落されそう
になり、和議を結んで再び貢納国として独立を保った。
前612年にアッシリア新バビロニアに滅ぼされたため、
旧北王国の領土が解放された。
 これを受けてヨシヤ(前647-609年)は国内の宗教改革
取りかかった。
 前622年に祭壇から発見されたとする「申命記」の記述に
従って、国内の祭儀と司祭制度を中央集権化した(申命記改革)。

前597年、新バビロニアネブカドネザルエルサレムに侵攻し、
ヨヤキン王を含めた1万ほどのイスラエル人を、
バビロンに連れ去り捕虜とした。
これは第一回の捕囚と呼ばれる。
 その後ユダ王国新バビロニアの貢納国となったが、
10年後にゼデキア王が完全独立を試みる。
だが紀元前586年にはネブカドネザルによってエルサレム城壁が
崩され神殿は破壊された。ここにユダ王国は滅亡
このときもバビロンに多くが捕虜とされて連れて行かれたが、
これは第二回の捕囚と呼ばれる。
捕囚されたユダヤ人たちのバビロンでの生活はかなり自由であった。

 ※ユダヤ人”とは・・・
  そもそも、“ムー(ドラコニアンによって造られた黄人)”の
  子孫が“シュメール”で文明を築き、
  “主なる神の使い”に“スモウ”で勝利した“ヤコブ”が
  “イスラエル”という称号を与えられたところから始まる。
   そう、民族としては“イスラエルであり、
  “イスラエル12支族”から分裂した2支族(ユダ族、
  ベニヤミン族)がユダ族を代表とする“ユダ王国(南王国)”を
  起こしたことから、後に彼ら(ユダ王国の2支族)を、
  神(ヤハウェイ、またはヤー)に選ばれた“ユダ族”
  “でっち上げて”、ユダヤ人”と呼ぶようになったもの。
   それゆえ、本来なら、“ユダヤ人”には、北王国の10支族は
  含まれない。彼らは歴史を湾曲(ねつ造)して、10支族まで
  含めて“ユダヤ人”と呼ぶようにしてしまったところから、
  誤った歴史が広まってしまった。

   後に、“ユダ族”の代表“ユダ”は、メシヤとして誕生する
  イエス・キリスト”をも裏切る(十字架にかける)ことになる。
   “嘘から始まった歴史”を取り繕うためには、
  嘘をつき通さなければならない宿命を負う。それ故、
  “ドラコニアン”のメッセンジャーとして誕生した
  “イエス・キリスト”の教えを受け入れることができなかった。
  そして、歴史は繰り返す。
   現在も“嘘から始まった国”が存在している。

 


         ~ つづく ~