イエスの復活とローマ国教(キリスト教)

イエス・キリストの復活】(以下、ウィキペディアより引用)

  イエス・キリストの復活についてはすべての福音書に記されて
  いる。

   マタイによる福音書: 28章
   マルコによる福音書: 16章
   ルカによる福音書: 24章
   ヨハネによる福音書: 20章・21章

 これら4つの福音書の記述をみても、イエス・キリストの復活し
 た場面を目撃した者は誰も記されていない
  遺体がなく空になった墓の記述と、イエス・キリストが復活し
 た後、多くの弟子の前に現れたことが記されているのみである。
 キリストの復活の諸々の出来事につき、マタイ、マルコは
 1日の間のことであるとし、ヨハネは数日に及ぶこととして、
 相違を見る立場がある。
  ルカは福音書ルカによる福音書)においては1日の出来事と
 して書いているが、聖書とパン裂きによって復活が知られる事を
 記す一方で、使徒言行録では復活のキリストの地上での生活を
 40日間と記述している。(しかし、聖書本文を見る限り、
 マタイ・マルコ・ルカに1日の出来事と特定した記述があるわけ
 ではない。)
  さらに、マタイとマルコでは、復活のキリストがガリラヤで
 弟子達に会うとされているが、ルカは全てエルサレムでの出来事
 として書いていることも相違とされる。
  使徒パウロはコリントの信徒への手紙一(15: 5 - 8)において、
 復活後のキリストに会った人々の名を挙げている。
 ペトロ、十二使徒、500人以上の信者達、主の兄弟ヤコブ
 全ての使徒達、最後にパウロである。しかしこの次第も、
 福音書の内容とは完全には一致していない

  ※あくまも、ウィキペディアからの引用なので、中立な立場で
   客観的に『イエスの復活』について記したものと考えられる。
    このように冷静に分析すると、新約聖書に掲載されている
   福音書には多々矛盾点があることに気づく。
    筆者の“おとぎ話”では、磔刑で処刑されたイエスの肉体に
   “アヌンナキ”の代表が「憑依」(イエスの肉体乗っ取り)し
   て、得意の2枚舌を駆使し、“会う人”によって都合よく、
   それらしい真理(もどき)を唱えて回った。
   だから、集めてみると、相違点(矛盾点)が現れるのだと、
   推測する。
    また、あえてこれらの矛盾点を残すことで、後の世の人々が
   解釈の違いによって分裂し、場合によっては紛争(宗教戦争
   に発展することも意図していたとも取れる。


旧約聖書新約聖書言語の相違点】

  旧約聖書の原本はヘブライ語なのに、新約聖書の原本は
  ギリシャ語”。この不思議な相違点についての考察。

  新約聖書が書かれたのは、紀元50年から紀元120年とされて
  いる。 
   当時の舞台背景は、ギリシャペルシャ時代からローマ帝国
  と転換していたが、文化的には、それ以前におけるマケドニア
  アレキサンダー大王による東方遠征の影響を受け、広大なヘレニ
  ズムの世界が展開されており、ギリシャ文化とペルシャ文化の
  融合が進む時代でもあった。
   ローマ帝国の言語はもともとラテン語だったが、多くの地域に
  おいては、ラテン語よりもギリシャ語が公用語としての地位を
  保っていた。またユダヤ人自身もこの世界に拡散し、ギリシャ
  しか解せないユダヤ人もいたし、ヘブライ語を読めないヘレニズ
  ムの世界(ギリシャ語圏)の在外ユダヤのために旧約聖書(ユダ
  ヤ教聖典)のギリシャ語訳聖書七十人訳聖書)も紀元前3世紀
  から前1世紀の間に成立していた。
   弟子たちは聖書の教えがユダヤ世界だけに閉じ込められる
  ことなく、より広い地域で読まれ、確かに後世に伝えるために
  ギリシャ語を選んだものと思われる。
  (参考文献:大辞泉、ブリタニカ国際百科事典、Website:wiseGEEK)

 

【ローマ国教と王権神授説

  一神教であるキリスト教は、次第にローマ帝国内に広がって
  いくが、アウグストゥス以降はじまった皇帝崇拝と相容れなかっ
  たため、これを拒否するキリスト教徒は時代ごとに迫害された。
  ローマ大火の責任をキリスト教徒に負わせたネロ帝の迫害(64
  年)、ローマの伝統神と皇帝崇拝を強化しようとしたディオクレ
  ティアヌス帝の大迫害(303年)など、キリスト教徒に対する
  弾圧は続いた。
   初期キリスト教徒はこうした迫害を逃れるため、カタコンベ
  いう地下墓地で礼拝をおこなった。2~4世紀にかけて、キリス
  ト教の経典として新約聖書が成立した。
   『新約聖書』はヘレニズム世界で使われたコイネー(ギリシャ語)で
  書かれ、イエスの言行を記録したマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ
  よる福音書と、ペテロ・パウロの伝道を記録した使徒行伝が含まれる。
  これ以降『旧約聖書』、『新約聖書』はともにキリスト教の経典と
  なった。
   コンスタンティヌス帝の治世になると、313年にミラノ勅令が
  出され、キリスト教信仰がローマ帝国内で公認された。
  コンスタンティヌス帝はその後対立していたリキニウス帝を破り、
  4分割されていたローマ帝国を再び統一する。
   こうしてキリスト教皇帝権と結びつき、地位を確立していった。
  コンスタンティヌス帝は325年にニケーア公会議を開催し、
  当時まだ確立していなかった教義を決定した。この会議により、
  イエスに人性を強く認めるアリウス派が異端となり、イエス
  神性を認め三位一体説を唱えるアタナシウス派が正統教義となった。
  ローマ帝国を追放されたアリウス派はその後ゲルマン民族
  伝道された。
   キリスト教初期の時代、キリスト教会に承認された教父という
  著作家が活躍し、キリスト教教義の確立に重要な役割を果たした。
  キリスト教最初の教父がエウセビオスで、使徒の時代から
  323年までを記した『教会史』、旧約の時代から303年までを
  記した『年代記』を残した。また、皇帝位は神から授かったもの
  であるという神寵帝理念を定式化し、後のビザンツ帝国やその後
  の王権神授説の根拠とされた。
   キリスト教は背教者ユリアヌス帝の迫害を受けつつも信者が増加し、
  テオドシウス帝により380年キリスト教信仰が強制され、392年に
  他の宗教がローマ帝国内で禁止となり、正式に国教となった。
  431年には、皇帝テオドシウス2世によりエフェソス公会議
  開かれ、ネストリウス派を異端として追放した。
   ネストリウス派はその後ササン朝に伝道し、唐代の中国に伝わり
  景教と呼ばれた。

   ※復活後の『キリストの教え』が“レプティリアン(アヌンナキ)”の
    メッセージであったため、“支配者たち(奴隷頭)”にとっても
    都合のよいものとして、大いに利用されてきた。

   ※景教ウィキペディアより引用)
     中国へは、唐の太宗の時代ペルシア人司祭「阿羅本」(ア
     ラボン、オロボン、アロペン等複数の説がある)らによって
     伝えられ、景教と呼ばれた。
      景教とは中国語で光の信仰という意味であり、景教教会を
     唐の時代、大秦寺という名称で建造された。
      しかし唐代末期、王朝を伝統的中華王朝に位置づける意識が
     強まって以降、弾圧され消滅した。
      モンゴル帝国を後に構成することになるいくつかの北方遊牧民
     も布教され、チンギス・ハーン家の一部家系や、これらと
     姻戚関係にありモンゴル帝国の政治的中枢を構成する一族にも、
     これを熱心に信仰する遊牧集団が多かった。そのため、元の時代に
     一時中国本土でも復活することになった。
      ただし、モンゴル帝国の中枢を構成する諸遊牧集団は、
     モンゴル帝国崩壊後は西方ではイスラム教とトルコ系の言語を
     受容してテュルク(トルコ人)を自称するようになり、東方では、
     それぞれチベット仏教を信仰してモンゴル語系統の言語を
     維持するモンゴルを自称し続ける勢力と、オイラトを称する勢力の
     二大勢力に分かれていき、ネストリウス派キリスト教を信仰する
     遊牧集団はその間に埋没、消滅していった。
      また、日本にも多大な影響(遣唐使)を与えた唐で隆盛していたため、
     景教が何らかの形で日本にまで伝播し、影響を与えていたはずだと
     主張する説も複数存在する。

 

  聖書にも出てくる東方の博士(『失われた10支族』)の行方は?
  キーワードは、「三人ノ木」=「蓁(しん、はた)」!!
  舞台は「ローマ」から「アジア」へと移っていく・・・

 

         ~ つづく ~