『失われた10支族』と『秦』
『失われた10支族』の行方(ウィキペディアより引用)
以下に挙げる4説は伝承または仮説として立てられたもの
のうち、イスラエル政府によって比較的有望とされた説で
あるが、必ずしも10支族だけを問題とした説ではない。
・一部はアフガニスタンに。
パシュトゥーン人には、ヨセフ族(エフライム族+マナセ族)の
末裔という伝承をもつ部族がいる。
10支族はメディア(今のイラン)を経由して東に逃れた
という説があり、その地はスキタイ人と同系のサカ族(仏教の
開祖・シャカもサカ族)または月氏族(弓月君(ゆづきのきみ)が
有名、月氏国は現在のキルギスという説もある)が居住し、
現在のアフガニスタンの一部を含むものであった。
・一部はエチオピアに。
イエメンを経由して、ヨセフ族(マナセ族、エフライム族)が
アフリカに入ったもの。現在のイスラエル建国後にエチオピアから
相当数が移住したが、それ以前には多くのユダヤ人が居住していた。
・一部は中国に。
宋代まで開封にはユダヤ人の街が存在した。また中国の回族のうち、
かなりの部分が古代ユダヤ人の末裔が改宗したものではないかと
いう説もある。(春秋戦国時代に、中国の西側に『秦』という国が
現れ、後に中国を統一していく)
・一部は日本に。
詳しくは、日ユ同祖論を参照。大陸からの帰化氏族である秦氏が
古代イスラエル人の失われた10支族ではないかという説。
一時は国際的にも有名だった説である。
失われた10支族のうち、第9族エフライム族、
第5族ガド族(ミカドの語源)、または第7族イッサカル族の数人が、
日本に移住したという説がある。
また、「日ユ同祖論」の一種であるが、富山県には
塩谷(しおんたん=シオンの地)という地名が残されており、
周辺住民の顔は日本人よりも彫りが深く、目が鋭い人達がそうでないか
と言われた(富山では谷を「タン」と読み、「ヤ」と読む場合は
屋の字に置き換えられている。県東部にはアイヌや朝鮮・中東の言葉も
見受けられる)。
・一部はインドのカシミール地方に。
カシミール地方にキリストの墓とモーセの墓と言われるものがある。
・一部はインド東部に。
マナセ族の末裔と称するブネイ・メナシェという人々がいる。
・一部はミャンマーに。
・一部はイギリスに。
経緯不明のユート人はエフライム族、またはダン族であると言う説。
(ダン族の末裔が現在の金融界を牛耳る「失われた・子供・一族」
(カポッてます))
・一部は新大陸(アメリカ)に。
ミシシッピ文化を作った民族・マウンドビルダーはアメリカ先住民の
祖先であることが明らかになっているが、19世紀にはマウンド
ビルダーの正体は謎であり、アメリカに渡った10支族がこれらの
遺跡を築いたマウンドビルダーなのではないかとする説もあった。
日ユ同祖論と同じガド族である。
※弓月君(ゆづきのきみ)・・・ウィキペディアより引用。
弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)は、
『日本書紀』に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人である。
帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に
弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。
弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが、
新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦(かずらき の そつひこ)の
助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。
しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて
帰還することはなかった。
そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて
弓月君の民の渡来を実現させた。
弓月君は、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。
渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は
柔らかく「肌」のように暖かいことから、波多(秦)の姓を
賜ることとなったのだという命名説話が記されている。
※葛城襲津彦(かずらき の そつひこ)
武内宿禰の子で、葛城氏およびその同族の祖とされるほか、
履中天皇(第16代)・反正天皇(第17代)・
允恭天皇(第18代)の外祖父である。
中国文化を受容して力をつけた周辺の異民族が、しばしば中国に
侵入するようになり、西周第12代の幽王(ゆうおう)のとき、
西北より侵入した犬戎(けんじゅう=チベット系といわれる)に
よって都の鎬京(こうけい)が侵略され、周(王朝)は都を東の
洛邑(らくゆう=現在の洛陽)に移した(紀元前770年)。
これを周の東遷といい、以後の周を東周(紀元前770年~
紀元前256年)と呼ぶ。
周の東遷以降、秦(王朝)によって中国が統一されるまで、
およそ550年におよぶ戦乱の時代が春秋・戦国時代であり、
その前半を春秋時代(紀元前770年~紀元前403年)、後半を
戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)と呼ぶ。
戦国時代の諸国は、従来の邑の集合体という国家形態から、
領域全体を支配する領土国家へと変身し、秦・魏・趙・楚などは、
開拓や水利事業をさかんに推進して、領土の拡大と農地の開発に
努めた。七雄のうちもっとも西方にあった秦は、紀元前4世紀ころ
富国強兵に成功し、急速に強大になった。これに対し、他の6国では、
秦に対抗して6国が同盟を結ぶ合従策(がっしょうさく)や、
各国がそれぞれ秦と結んで安全をはかる連衡策(れんこうさく)など、
権謀術数(けんぼうじゅっすう)をつくした外交戦略が展開されたが、
秦はたくみに6国の分断をはかり、東周の王室と6国を次々に滅ぼして、
紀元前221年、ついに中国を統一した。
※春秋時代の名称は、孔子の編纂した史書『春秋』に由来し、
戦国時代の名称は、諸国の外交戦略を記した『戦国策』の
書名に由来する。
なお、晋の分割を春秋・戦国の画期とするのは、北宋の
司馬光の『資治通鑑しじつがん』に始まる。
次回は『秦』と始皇帝および徐福(じょふく)に迫っていく・・・
~ つづく ~