『失われた10支族』と『秦』

『失われた10支族』の行方ウィキペディアより引用)

  以下に挙げる4説は伝承または仮説として立てられたもの
       のうち、イスラエル政府によって比較的有望とされた説で
  あるが、必ずしも10支族だけを問題とした説ではない。

  ・一部はアフガニスタンに。
    パシュトゥーン人には、ヨセフ族(エフライム族+マナセ族)の
    末裔という伝承をもつ部族がいる。
     10支族はメディア(今のイラン)を経由して東に逃れた
    という説があり、その地はスキタイ人と同系のサカ族(仏教の
    開祖・シャカもサカ族)または月氏弓月君(ゆづきのきみ)が
    有名、月氏国は現在のキルギスという説もある)が居住し、
    現在のアフガニスタンの一部を含むものであった。

  ・一部はエチオピアに。
    イエメンを経由して、ヨセフ族(マナセ族、エフライム族)が
    アフリカに入ったもの。現在のイスラエル建国後にエチオピアから
    相当数が移住したが、それ以前には多くのユダヤ人が居住していた。

  ・一部は中国に。
    宋代まで開封にはユダヤ人の街が存在した。また中国の回族のうち、
    かなりの部分が古代ユダヤ人の末裔が改宗したものではないかと
    いう説もある。(春秋戦国時代に、中国の西側に『秦』という国が
    現れ、後に中国を統一していく)

f:id:new-cosmos684:20190419141931j:plain

 

  ・一部は日本に。
    詳しくは、日ユ同祖論を参照。大陸からの帰化氏族である秦氏
    古代イスラエル人の失われた10支族ではないかという説。
    一時は国際的にも有名だった説である。
     失われた10支族のうち、第9族エフライム族、
    第5族ガド族(ミカドの語源)、または第7族イッサカル族の数人が、
    日本に移住したという説がある。
     また、「日ユ同祖論」の一種であるが、富山県には
    塩谷(しおんたん=シオンの地)という地名が残されており、
    周辺住民の顔は日本人よりも彫りが深く、目が鋭い人達がそうでないか
    と言われた(富山では谷を「タン」と読み、「ヤ」と読む場合は
    屋の字に置き換えられている。県東部にはアイヌや朝鮮・中東の言葉も
    見受けられる)。

  ・一部はインドのカシミール地方に。
    カシミール地方にキリストの墓とモーセの墓と言われるものがある。

  ・一部はインド東部に。
    マナセ族の末裔と称するブネイ・メナシェという人々がいる。

  ・一部はミャンマーに。    

  ・一部はイギリスに。
    経緯不明のユート人はエフライム族、またはダン族であると言う説。
    (ダン族の末裔が現在の金融界を牛耳る「失われた・子供・一族」
    (カポッてます))

  ・一部は新大陸(アメリカ)に。
    ミシシッピ文化を作った民族・マウンドビルダーはアメリカ先住民の
    祖先であることが明らかになっているが、19世紀にはマウンド
    ビルダーの正体は謎であり、アメリカに渡った10支族がこれらの
    遺跡を築いたマウンドビルダーなのではないかとする説もあった。
    日ユ同祖論と同じガド族である。

 

     ※弓月君(ゆづきのきみ)・・・ウィキペディアより引用。
       弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)は、
       日本書紀に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人である。
       帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に
       弓月君百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。
        弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが、
       新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦(かずらき の そつひこ)
       助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。
       しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて
       帰還することはなかった。
        そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて
       弓月君の民の渡来を実現させた。
        弓月君は、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。
       渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は
       柔らかく「肌」のように暖かいことから、波多(秦)の姓
       賜ることとなったのだという命名説話が記されている。

       ※葛城襲津彦(かずらき の そつひこ)
         武内宿禰の子で、葛城氏およびその同族の祖とされるほか、
         履中天皇(第16代)・反正天皇(第17代)・
         允恭天皇(第18代)の外祖父である。

 


春秋戦国時代』から統一国家『秦』の時代へ

  中国文化を受容して力をつけた周辺の異民族が、しばしば中国に
  侵入するようになり、西周第12代の幽王(ゆうおう)のとき、
  西北より侵入した犬戎(けんじゅうチベット系といわれる)に
  よって都の鎬京(こうけい)が侵略され、周(王朝)は都を東の
  洛邑(らくゆう=現在の洛陽)に移した(紀元前770年)。
   これを周の東遷といい、以後の周を東周(紀元前770年~
  紀元前256年)と呼ぶ。
   周の東遷以降、秦(王朝)によって中国が統一されるまで、
  およそ550年におよぶ戦乱の時代が春秋・戦国時代であり、
  その前半を春秋時代(紀元前770年~紀元前403年)、後半を
  戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)と呼ぶ。

f:id:new-cosmos684:20190419141931j:plain


   戦国時代の諸国は、従来の邑の集合体という国家形態から、
  領域全体を支配する領土国家へと変身し、秦・魏・趙・楚などは、
  開拓や水利事業をさかんに推進して、領土の拡大と農地の開発に
  努めた。七雄のうちもっとも西方にあった秦は、紀元前4世紀ころ
  富国強兵に成功し、急速に強大になった。これに対し、他の6国では、
  秦に対抗して6国が同盟を結ぶ合従策(がっしょうさく)や、
  各国がそれぞれ秦と結んで安全をはかる連衡策(れんこうさく)など、
  権謀術数(けんぼうじゅっすう)をつくした外交戦略が展開されたが、
  秦はたくみに6国の分断をはかり、東周の王室と6国を次々に滅ぼして、
  紀元前221年、ついに中国を統一した。

   ※春秋時代の名称は、孔子の編纂した史書『春秋』に由来し、
    戦国時代の名称は、諸国の外交戦略を記した『戦国策』
    書名に由来する。
     なお、晋の分割を春秋・戦国の画期とするのは、北宋
    司馬光の『資治通鑑しじつがん』に始まる。

 

 

  次回は『秦』と始皇帝および徐福(じょふく)に迫っていく・・・

 

 

         ~ つづく ~