中国を統一した『秦』とは? (ウィキペディアより引用)

【秦】
  秦(しん)は紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に
  滅亡した。
   統一から滅亡までの期間(紀元前221年~紀元前206年)を
  秦朝、秦代と呼ぶ。統一時の首都は咸陽。
   紀元前247年に「政(せい)」が13歳で即位するも、実質的な
  権力は商人の身から先代王の宰相となっていた相国(しょうこく、
  漢代に於ける廷臣の最高職)の「呂不韋(りょふい)」が握って
  いた。紀元前238年に呂不韋が失脚して「政」が実権を掌握した。
   秦の制度の多くは漢によって引き継がれ、共通する部分は多い。
  漢の治世が前後で約400年も続いた理由の一つは、人民の反発を
  受けることなく秦の制度を踏襲できたことが挙げられる。
   秦の成立は単なる中国の統一(中国語版)と言うことに終わらず、
  皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点で
  中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。


始皇帝
  始皇帝(しこうてい、紀元前259年2月18日 ~紀元前210年)は、
  中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年~紀元前221年)。
  姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、諱(いみな)は政(せい)
   紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、
  紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。
   統一後、始皇帝は、従来の配下の一族等に領地を与えて世襲され
  ていく封建制から、中央が選任・派遣する官僚が治める郡県制への
  全国的な転換(中央集権)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の
  統一、交通規則の制定などを行った。万里の長城の建設や、等身大の
  兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などの大事業も行った。
  また、法による統治を敷き、自身の政治を批判する学者や本を
  始末した焚書坑儒を実行したことでも知られる。
   漢時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、「政」は異人の
  実子ではなかったかという部分がある。
  後漢時代の班固も『漢書』にて始皇帝を「呂不韋(りょふい)の子
  と書いている。


呂不韋(りょふい)】
  中国戦国時代の秦の政治家。荘襄王(そうじょうおう、始皇帝
  義父との説あり。姓は嬴(えい))を王位につける事に尽力し、
  秦で権勢を振るった。始皇帝の実父とする説もある。
   荘襄王は、呂不韋が連れてきた芸者(趙姫(ちょうき))
  気に入った。それが政(始皇帝)の母である。だが、その女は
  呂不韋とも関係を持っていて、呂不韋に対して子を身ごもった
  伝えていた。そのため、政の実父が呂不韋であるという説が今で
  も残っている。そして、紀元前259年2月に政が誕生した。

   ※司馬遷(しばせん)の「史記(しき)」によれば、呂不韋は、
    商人の子として生まれ、若い頃より各国を渡り歩き商売で富を
    築いた。しかも『史記』の「秦始皇帝本紀」には秦始皇帝
    ことを「呂政」と表記している部分もある。
     さらに、重要なのは、呂不韋漢民族ではなかったという
    事実である。彼は羌族(きょうぞく、チベット系遊牧部隊)
    だった。


【徐福(じょふく)】
  『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝
  「東方(現在の日本)の三神山(みかみやま)に長生不老の霊薬が
  ある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い
  男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を
  持って東方に船出したものの三神山(不死の山=現在の富士山)には
  到らず、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王(伝説の富士王朝
  となり、秦には戻らなかったとの記述がある。
   東方の三神山とは、渤海の先にある神仙が住むとされた島で、
  蓬莱・方丈・瀛州(東瀛とも)のことであり、蓬壺・方壺(ほうこ)・
  瀛壺とも称し、あわせて「三壺」という。
   のち日本でも広く知られ、竹取物語でも「東の海に蓬莱という
  山あるなり」と記されている。蓬莱や瀛州はのちに日本の呼称となった。
  魏晋南北朝時代の487年、瀛州は行政区分として制定されている。


  ※日本における伝承
    各地に徐福ゆかりの伝承が残されており、特に熊野の地(現在の
    三重県熊野市波田須町)に辿り着いたというものがよく知られて
    いる。波田須駅付近には徐福ノ宮があり、彼が持参したと伝わる
    すり鉢をご神体としている。また、同地からは秦代の貨幣である
    秦半両が出土しており、伝説と関連するのではとも言われている。
    近隣の和歌山県新宮市には、徐福の墓とされるものが伝わっており、
    徐福公園が造られている。
     佐賀県佐賀市の伝承では、同市の金立山に徐福が発見したと
    される「フロフキ」という植物が自生する。フロフキは、
    カンアオイ(寒葵)の方言名で、地元では俗に「不老不死」が訛って
    フロフキになった等ともいい、金立地区ではその昔、根や葉を
    咳止めとして利用していたという。
     京都府伊根町の伝承では、徐福は同町に辿り着いたとしている。
    町内にある新井崎神社付近は菖蒲や黒節のよもぎなどの薬草が自生して
    おり、徐福はこの地で不老不死の妙薬を探し当てたとされる。
    高い文化や技術を習得していた徐福は村人に慕われたので、当地に
    上陸後、故郷に帰ることなく村に滞在したといわれ、近隣で麻疹が
    流行して多くの村人が亡くなった際に、徐福を新井崎神社に祀った
    ところ救われたと伝えられる。現在も同社には徐福が祀られており、
    所蔵する古文書『新大明神口碑記』にも彼の事が記されている。
     長野県佐久市の伝承では、徐福は蓼科山に住んでいた時に双子を
    儲けたとされ、彼らが遊んだ場所を「双子池」や「双子山」と
    名付けたという。
     山梨県富士吉田市の伝承では、宮下家に伝来した『宮下家文書』
    含まれる古文書群『富士文献』は、徐福が編纂したという伝承があり、
    また彼の来日した年代が『海東諸国紀』の孝霊天皇の頃という記述が、
    『宮下家文書』の記述と符合することが指摘される。
     他にも鹿児島県出水市・いちき串木野市、宮崎県延岡市
    広島県廿日市市、愛知県一宮市豊川市、東京都八丈町秋田県男鹿市
    青森県中泊町などに伝承が存在する。

  ※中国における伝承
    釈義楚の義楚六帖には、徐福が富士山に漂着したことが記され、
    顕徳五年(958年)に弘順大師が「徐福は各五百人の童男童女を連れ、
    日本の富士山を蓬莱山として永住し」と伝えたという。
     北宋の政治家・詩人である欧陽脩の『日本刀歌』には
    「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器
    玩皆精巧(日本人の祖である徐福は秦を欺き、薬を採取して
    連れて行った若者たちとその地に長らく留まった。連れて行った者の
    中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)」
    という内容で日本を説明する部分が存在する。

  

  秦の始皇帝、徐福には多くの謎があるが、筆者が注目したのは、
  「不老不死の妙薬」は口実(建前)で、本音の部分は、『蓬壺・
  方壺(ほうこ)・瀛壺とも称し、あわせて「三壺」』にあったのではないか?
  そう『壺(つぼ)』といえば『マナのつぼ』(イスラエル3種の神器の一つ)。
   後に中国(秦)から日本にやってくる“天孫族イスラエル
  10支族(とくにガド族)”の本体を送る準備として、
  日本の3種の神器とイスラエル3種の神器を「見せ合う(=結婚前の
  “お見合い”の儀式)」儀式を行ったのではないかと・・・
  
  そして、『秦』は『失われた10支族=秦人』がシルクロードを安心して
  進めるように戦乱の中国を統一した、のではないかと・・・

 

  次回は、いよいよ日本に!
   縄文時代が終わり、渡来人の弥生時代大和朝廷へ・・・

 


               ~ つづく ~