卑弥呼の暗号について

筆者が追跡調査している「卑弥呼」の途中経過の報告。
(途中で脱線するかも・・・)

古事記』『日本書紀』に登場する「神宮皇后」が暗号になっていると
筆者は考えている。そして、「神宮皇后」「卑弥呼「トヨ」
邪馬台国」「倭(やまと、わ)」は一蓮托生で、
天照大神」にもつながる、壮大な展開が・・・?

 


【神宮皇后と卑弥呼

日本書紀』編纂の際、年代設定の基準としたのが、『三国志魏志倭人伝』である。
60年で1周する干支には、1260年周期で訪れる辛酉の年には革命が
起こるという古代中国の思想が、日本に伝えられた。
魏志倭人伝によると、西暦239年に邪馬台国の女王「卑弥呼」は、
魏へ遣使した。朝鮮半島帯方郡(韓国のソウル近郊カ)を経由して
都の「洛陽」へ向かったと記述されている。当時の中国大陸は
魏のほかに、呉・蜀という国があり、三国時代と呼ばれたが、
卑弥呼が魏に使者を送る1年前の238年まで、中国大陸の東北部には
公孫氏がという国を興しており、当然、邪馬台国朝鮮半島経由では
魏に遣使できなかった
邪馬台国から朝貢(ちょうこう、皇帝にみつぎものを献上すること)を
受けた魏の皇帝の詔文が魏志倭人伝に記録されている。詔文を全文記録して
いるのは、『三国志』の中では邪馬台国の遣使に対してだけである。
魏が、倭との関係を重視していたことがわかる。
ちなみに、詔文の後には、卑弥呼が死んだということを記した
卑弥呼以死大作冢」という文が記されている。
 
日本書紀巻九』神功皇后紀」には、『魏志倭人伝』を割注として
引用している箇所がいくつかある。その中に、現行の『魏志倭人伝』では
景初二年となっている(景初二年六月倭女王)が、日本書紀では
景初三年と書かれている(神功皇后の卅九年。魏志云、明帝景初三年六月、
倭女王…)。
朝鮮半島や台湾の教科書では原文に倣い、景初二年を採用している。
少し時代が下った6世紀前半の『南斉書』などにも景初三年と記されている。
日本では、景初三年が正しいとしているのであるが、その理由として
挙げられるのが、景初二年の西暦238年は、先ほど述べたように、
公孫氏の燕国があるため、魏に向かうことはできないからである。
 『神功皇后紀』の紀年を西暦に換算すると、神功39年は西暦240年にあたる。
これは、神武天皇の即位を辛酉年のB.C.660年であることを基に算出している。
その影響で、『記紀』(『古事記』と『日本書紀』との総称)では
神武以降の何代かの天皇は、大変な長寿となり、
第2代「綏靖(すいぜい)天皇」から第9代「開化(かいか)天皇」までの
記述が非常に短いことで、欠史八代(けっしはちだい)と呼ばれている。

また、第10代「崇神(すじん)天皇」が初代天皇であり、
崇神天皇」の事績を「神武天皇」の事績として充てたという説なども
江戸時代から議論されている。
確実なのは、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文の解析などに
よって、5世紀後半には、「雄略(ゆうりゃく)天皇」(『日本書紀』では
大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)の実在がほぼ確定している。
 日本の古墳時代の始まりは、現在では西暦250年あたりとされている。
「纏向勝山古墳(まきむくかつやまこふん、奈良県)」や
「ホケノ山古墳(奈良県)」は、「卑弥呼」の時代の古墳でおそらく間違いない
だろう。卑弥呼や、その後継者である台与(壹与 とよ)の死後、
乱れた倭国(わこく、やまとこく=日本の旧名)をまとめたのが、
崇神天皇であり、それが天皇家の始まりであるという考えが通説と
されている。

  ※籠(この)神社の宮司から聞いた話によると、
   「宇宙は「多次元同時存在の法則」があると伝えられており、
   『記紀』にもこの法則が適用されている。」と聞いたことがある。
   さらに、宮司はこうも言っていた。「『記紀』に登場する人物に
   使われている“神”は“同一人物”であり、「多次元同時存在の法則」を
   表している」と。
    となると、
     初代天皇の「神武天皇」=第10代「崇神(すじん)天皇
     =第15代「応神(おうじん)天皇」(仲哀天皇の第4皇子。
      母は神功皇后)!!

また、纏向遺跡(まきむくいせき、奈良県の研究を起爆剤として、
全国各地で行われた土器の研究から、古墳時代の始まりは220年~250年頃まで
遡ることになる。そうなると、天皇系譜と卑弥呼との関係が複雑になる。
弥生時代には古墳が存在し、すでに天皇が在位していたことにもなる)

 


【神宮皇后(じんぐうこうごう)】

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、日本武尊ヤマトタケル)の子)
皇后。古代日本の摂政
 父は「開化(かいか)天皇玄孫・息長宿禰王(おきながの
すくねのみこ)」で、母は渡来人の新羅王子「天日矛(あめのひぼこ)」の
裔(えい=子孫)・「葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)」。
妹に「虚空津比売(そらつひめのみこと)」、「豊姫」がいる。

仲哀天皇熊襲(くまそ、九州南部)征伐に随伴する。
 仲哀天皇9年2月の天皇崩御熊襲で殉職)に際して遺志を継ぎ、
3月に熊襲征伐を達成する。同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み、
百済、高麗をも服属させる(三韓征伐)。
12月、天皇の遺児である「誉田別尊(ほむたわけのみこと)」を出産。
翌年、帰国して摂政となり、「誉田別尊」を太子とした。
 誉田別尊が即位するまで政事を執り行い、聖母(しょうも)とも
呼ばれる。摂政69年目に崩御

 


熊襲(くまそ、九州南部)征伐】

即位8年、熊襲討伐のため「神宮皇后」とともに筑紫に赴いた「仲哀天皇」は、
神懸りした皇后から託宣(たくせん)を受けた。
 それは熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を
渡り、金銀財宝のある新羅を攻めるべし、そうすれば戦わずして勝つだろう、
という内容だった。(熊襲は、当時の朝鮮と連携して朝廷を乗っ取る計画を
企てていたようである)
 神は再度、皇后に神がかり「天皇は国を手に入れられず、妊娠した皇后が
生む皇子が得るだろう」と託宣した。
 それでも神を信じられない「仲哀天皇」は、構わず熊襲を攻めた。
日本書紀内の一書(異説)や『天書紀』では、熊襲の矢に当たり、
橿日宮(かしいぐう)で崩御したとされる。
 遺体は「武内宿禰」により海路で穴門(穴戸、現在の下関海峡)を通って
豊浦宮(とゆらのみや、現在の下関市)で殯(もがり、古代の葬儀儀礼)された。

 


【豊姫】

神功皇后」の妹 で、魏志倭人伝』の「台与(とよ)」の候補の一人。
昔から幾つかの神社で祀られている。
 魏志倭人伝卑弥呼が死んだ後、男王が立ったが国中が
従わなかったとする。そのため千人ほどが死ぬ戦乱となったとする。
そこでふたたび卑弥呼と同族の女性、十三歳の台与(とよ)が擁立され、
ようやく国が定まったとする。
 『勘注系図では、私が卑弥呼とする宇那比姫(うなびひめ、
卑弥呼の説もあり)の二世代後に、卑弥呼と同じ、
大倭姫(おおやまとひめ)という「大和王権の女王」の名を持つ女性
登場する。この人の亦の名を「天豊姫命(あめのとよたらしからひめの
みこと)」という。

  ※「宇那比姫(うなびひめ)」と「卑弥呼」と
   「大倭姫(おおやまとひめ)」と
   「天豊姫命(あめのとよたらしからひめのみこと)」を
   同一人物(多次元同時存在の法則)とする説もある。

   「天豊姫」の「天」は、この一族に付けられる姓のようなもので
   あるから、名前は「豊(とよ)」である。これは『魏志倭人伝』の
   「台与」に通じる。
    「天豊姫命」の父親は、七世孫「建諸隅命(たけもろずみのみこと)」で
   ある。「建諸隅命」は「宇那比姫」の甥である。
   したがって「建諸隅命」の児、「天豊姫」は「宇那比姫」と同族である。
   魏志倭人伝』が伝える「宗女」なのである。

    ※「宗女」とは?
      魏志倭人伝の中に「宗女(イヨもしくはトヨ)」とある。

 

 

弥生時代になると、旧日本(倭国)に渡来人(海を渡った縄文人の子孫の帰還)が
移住するようになると同時に、渡来人の中には朝鮮半島を経由し、
百済や高麗とは異なる文化を残しながら、日本に移住してきた部族もいた。
おそらく、この部族たちが、当時の百済や高麗の人たちから
「好かれていなかった」ことから、後に日本の権威(とくに皇位)を
脅かすようになったとも考えられる。
 熊襲(くまそ)征伐は「百済」や「新羅」との連合軍で結成された
反勢力部隊との戦いでもあったため、後方支援をする「新羅」を攻めた方が得策、
というのが、「神宮皇后」が受けたとされる「宣託」と解釈できる。

また、岡山県吉備国にも、百済から「倭国乗っ取り」を企んでいた
「ウラ一族」の伝承がある。(おとぎ話「桃太郎」のモデル
 この伝承については、またの機会に・・・


さらに、『日本書紀』によると、「仲哀天皇」が熊襲征伐の際に、
斬首されたとの記録もあり、このとき、「天皇の首がほしければ、
取りに来い」と「神宮皇后」に伝えられている。
 そこで、皇后は、天皇の魂を宿した神輿を造らせ、各地の豪族に
伝書鳩(文字があったという根拠にも)』を飛ばして集めたという。
そして、集まった豪族たちが神輿を担ぎ、名乗りを上げた後、
こう叫んだという。「倭(わ)を背負(しょ)ってたたかう!」と。
さらに、その叫びは繰り返され、徐々に早くなり、
「倭を背負う(しょう)」 ⇒ 「わーしょう」 ⇒ 「わっしょ」
そう、この事件が、神輿を担ぐときの掛け声「わっしょい」の起源と
される。
 さらに、「わっしょい」が進化しているところも・・・
「わっしょい」をひっくり返し、「しょいわ」となり、「そいや」に。
「そいや」・・・前略、道の上より・・・関係あるかも?


歴史の教科書では、縄文時代弥生時代~(古墳時代)~大和時代 と
教わったと記憶しているが、実際、『記紀』や『魏志倭人伝』などの記録を
照合していくと、「弥生時代」は“あいまい”(無かったとも・・・)で、
実際は、縄文時代末期に「徐福」が移住してから、
一気に天皇制(邪馬台国大和朝廷に動いていったと考えられる。

 


          ~ つづく ~