『やまと朝廷』と『神武天皇』

大和朝廷ヤマト王権)】 ※ウィキペディアより引用。

ヤマト王権(ヤマトおうけん)とは、3世紀から始まる古墳時代に「王」や
「大王」(おおきみ)などと呼称された、倭国の首長を中心として、
いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織である。
今の奈良盆地を中心とする大和地方の国が、まわりの国を従えたことから
こう呼ばれる。
 旧来より一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、
歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは、
必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、
その歴史観を反映する用語としてヤマト王権の語等が用いられはじめた。

呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」
「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている。
 古墳時代の後、飛鳥時代での天皇を中心とした日本国の中央集権組織のことは、
「朝廷」と表現するのが一般的な表現である。

「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の古事記』や
日本書紀や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、
「大和」の漢字表記はなされておらず、倭(ヤマト)として表記されている。
三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。
 その後701年の大宝律令施行により、国名(郡・里(後の郷)名も)は
二文字とすることになって大倭となり、「橘諸兄(たちばな の もろえ)」政権
開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、
恭仁京」(くにきょう/くにのみやこ 現在の京都府木津川市加茂地区)遷都に
先立って大養徳となったが(地名のみならずウジ名も)、
藤原仲麻呂」権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)(前年に、
恭仁京完全廃棄(9月に大極殿を山背国分寺に施入))に大倭に戻り、
そして天平宝字元年(757年)(正月(改元前)に諸兄死去)の後半頃に、
大和へと変化していく。

 

邪馬台国連合と纒向(まきむく)遺跡】

魏志倭人伝は、3世紀前半に邪馬台国卑弥呼が現れ、
国々(ここでいう国とは、中国語の国邑、すなわち土塁などで囲われた都市国家的な
自治共同体のことであろう)は、卑弥呼を「共立」して倭の女王とし、
それによって争乱は収まって30国ほどの小国連合が生まれた、とし、
親魏倭王」印を授与したことを記している。
 邪馬台国には、大人と下戸の身分差や刑罰、租税の制もあり、
九州北部にあったと考えられる伊都国には、「一大率」という監察官的な役人が
置かれるなど、統治組織もある程度整っていたことが分かる。
 編年研究の進んだ今日では、古墳の成立時期は3世紀末に遡るとされているため、
卑弥呼を宗主とする小国連合(邪馬台国連合)が、ヤマトを拠点とする「ヤマト政権」
ないしヤマト王権」につながる可能性が高くなったとの指摘もある。

 

【神武東征と建国】

「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」日向国(ひゅうがのくに、現在の宮崎県)に
あったが、甲寅年、45歳のときに「饒速日(にぎはやひ、物部氏の遠祖)」が
東方の美しい国に天下った話を聞いた。
「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」は、自らの兄や子に東へ遷ろうとすすめて
その地(奈良盆地)へ東征(神武東征)を開始した。
「速吸の門(はやすいのと、豊予海峡の古称)」では、
国神である珍彦(うずひこ、倭国造の祖)に出会い、
彼に椎根津彦(しいねつひこ)という名を与えて道案内にした。
筑紫国菟狭(うさ)の一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)、
同国崗水門(おかのみなと、福岡県北部、遠賀川河口付近の古地名)を経て、
安芸国(あきのくに、広島県広島市安芸区)の埃宮(えのみや)、
吉備国(きびのくに、古代日本の地方国家。 現在の岡山県全域と広島県東部と
香川県島嶼部および兵庫県西部にまたがり、筑紫、出雲、大和などと並ぶ有力な
勢力の一つ)の高島宮(たかしまのみや)に着いた。
 「磐余彦(いわれびこ)」は宿敵「長髄彦(ながすねひこ)」と戦い、
饒速日命(にぎはやひのみこと)」は、その主君であった「長髄彦(ながすねひこ)」を殺して帰順した。
 辛酉年、「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」は、「橿原宮(かしはらのみや)」で
はじめて天皇位につき(神武天皇
始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称された。
伝承上、これが朝廷および皇室の起源で、日本の建国とされる。
(詳しくは次回のブログで。)

 


次回は、倭(ヤマト)と邪馬台国神武天皇に隠された“卑弥呼”の暗号に迫っていく。

 

 

        ~ つづく ~