神武天皇と徐福(渡来人)

神武天皇の別名】

 ・「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)

 ・「神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)」

 ・「神日本磐余彦天皇神武天皇)」の諱(いみな)は、
  「彦火火出見(ひこほほでみ)」。

  ※神武天皇の別名「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・ノ・ミコト」 は、
   サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」の意味で、
   エフライム族の北朝イスラエル王国再興であるとも言われている。

 

神武天皇の誕生】

 「彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)」の
 第四子。母は「玉依姫(たまよりびめ)」。
 「庚午(かのえうま)年1月1日(庚辰(かのえたつ)の日)」に、
 日向国(ひゅうがのくに)で誕生。15歳で立太子(りったいし)。
 「吾平津媛(あひらつひめ)」を妃とし、「手研耳命(たぎしみみのみこ)」を
 得た。

 

神武天皇の東征と即位】

 「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」は日向国(ひゅうがのくに、
 現在の宮崎県)にあった。

   ~ 以下 中略 ~

 辛酉年、「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」は、
 橿原宮(かしはらのみや)」ではじめて天皇位につき(神武天皇
 「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称された。
 伝承上、これが朝廷および皇室の起源で、日本の建国とされる。

  ※始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」
    「神武(じんむ)天皇」および「崇神(すじん)天皇」の敬称。
    初めて建設された国、あるいは革新された国を統治してゆく天皇
    さしていう。『日本書紀』の「神武紀」には、
    「始馭天下之天皇」と記し、「崇神紀」には、
    「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と記しており、
    それぞれ神武天皇」、「崇神天皇をさしている。

    『日本書紀』に、
    神武天皇は「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」、
    崇神天皇は「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と記され、
    文字は違うが読みは通じ、ともに「初めて国を治めた天皇を意味する。
     建国の祖という神武の統治は大和(やまと)の範囲にとどまり、
    崇神は大和の四周を平定し、内治の充実に尽くしたと伝えられる。
    そこで崇神を実質的な建国者とみる立場から、本来、
    崇神の敬称であったこの称が、のちに、大和政権の起源を古くするために
    造作(ぞうさく)された神武にも及ぼされて、同じ称呼になったのでは
    ないかとする説もある。
   
     ※籠(この)神社の海部宮司によれば、「多次元同時存在の法則」により、
      「神武」=「崇神」(同一人物)という暗号が『記紀』には隠されている
      とのこと。

     ※建国記念日
      「2月11日」は、『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)で、
      初代天皇とされる神武天皇(じんむてんのう)の即位日。
      「旧暦の紀元前660年1月1日」と日本書紀に記載があり、
      その即位月日を新暦に換算した日付となる。
 


玉依姫(たまよりひめ)】

  玉依姫(たまよりひめ)は、豊玉姫(とよたまひめ)の妹。
  そして、玉依姫(たまよりひめ)は、自分の子ではない
  「豊玉姫(とよたまひめ)」の子を、姉の代わりに養育し、
  自分が養育した姉の子、「うがやふきあへず」が男子として成長し、
  玉依姫(たまよりひめ)を妻に選んだ。
   そして、玉依姫(たまよりひめ)と「うがやふきあへず」の間に生まれた子が、
  初代天皇である「神武天皇となった。

   ※豊玉姫(とよたまひめ)、豊姫(とよひめ)、卑弥呼(ひみこ)には
    隠された暗号があると、筆者は考える。(現在調査中)

  「たまよりびめ(玉依毘売、古事記)」または
  「たまよりひめ(玉依姫日本書紀)」は、日本神話に登場する女神。
  神武天皇(初代天皇)の母として知られる。
   名義は「神霊が依り憑く巫女」と考えられる。
  「大物主神(おおものぬしのかみ)」の妻である
  「活玉依毘売(いくたまよりひめ)」や、
  『山城国風土記(やましろこくふうどき)』逸文に見える
  「玉依日売(たまよりびめ)」と同じく、この名前を持つ者は
  神と通婚する巫女的神性を持つとされる。

 


鵜葺草葺不合命、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)】

  別名、「彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこ             と)」。
  地神五代の五代目、日向三代の三代目。
  伯母の「玉依姫(たまよりびめ)」との間に彦五瀬命稲飯命三毛入野命
  彦火火出見尊神武天皇)を得た。
  『日本書紀』によれば、「鸕鶿草葺不合尊」が誕生した産屋は
  「全て鸕鶿(う)の羽を草(かや)としてふいたが、屋根の頂上部分を、
  いまだふき合わせないうちに生まれ、草(かや)につつまれ波瀲(なぎさ)に
  すてられた。」これにより、母親の「豊玉姫(とよたまひめ)」が
  「彦波瀲武鸕鶿草葺不合(ひこなぎさたけうがやふきあえず)」と名付けた。
   そして、『富士宮下文書』などの古文書によると、「うがやふきあえずのみこ           と」の、「うがやふきあえず」は「ウガヤフキアエズ王朝七二代」であり、
     その王統を「ウガヤフジアワス」と呼んでいる。

   ※富士宮下文書』
      秦の始皇帝の時代に、東方に不老長寿の霊薬を求めて出航したとされる徐                        福は、富士高天原に着いて、そこで口承や神代記録を編集して漢字に                              書き 直し、『富士宮下文書』の原型を書いたとされる。
      この記録によれば・・・

     ◆第7代・「孝霊(こうれい)天皇」の時代に、徐福は富士山に渡来した。
      (秦の始皇帝と同時代人なので紀元前3世紀のこと)

     ◆武内宿禰(たけうちのすくね)が、徐福の来朝を聞いて喜び、
      富士山本宮七廟惣名・阿祖山大神宮に挨拶にやってきて、
      のちに熱心な「徐福学」の信奉者となった。
      (この記述から、徐福と武内宿禰はおそらく同時代人、かつ同胞で
      あったことが分かる)

     ◆徐福は神国日本の太古の歴史を書き残す事業に着手して、
      神々の子孫たちに師事し、その口碑、口談、伝言、および各家に
      伝わる実記録や系図を集大成して『十二史談』を作った。

     ◆紀元前3世紀に漂着した徐福の一行は、駿河の国で「富士王朝」と
      呼ばれた小国を建国するが、その痕跡は富士山の噴火によりすべて                                 失われた。
      (同じ頃、関西には大和王朝、
       九州には日向族によるウガヤフキアエズ王朝があった)

      ※ここでいう「大和王朝」は「邪馬台国卑弥呼の時代)」。
       また、「富士王朝」の調査を進めていた研究チームは、
       樹海で有名な青木が原(溶岩層のさらに下)にあるのでは・・・と
       いうことで、発掘調査の準備を進めていた段階で、富士山が世界遺産
       登録されたため、調査がとん挫した経緯もある(タイミングが                                         良すぎ?)

     ◆その後、「富士王朝」は500年近く繁栄して、「大和王朝」や                                          「九州王朝」と激しい対立を繰り返し、ついに紀元後2世紀頃には                                  政権を奪うことに成功した。
      これがのちに倭国大乱』と呼ばれる。
       その結果、即位したのが第10代・「崇神(すじん)天皇」である。
      なお、「崇神天皇」は徐福一族が呼び寄せた政治家であり、
      第12代・「景行(けいこう)天皇」は職業軍人である。
      (神武~綏靖(すいぜい)までは九州王朝、欠史八代とは                                                   ナガスネヒコ政権、または徐福の子孫を指す)

     ◆「富士王朝」側に属した人物として、下記の人名が挙げられる。
        崇神天皇景行天皇ヤマトタケル・・・・(いわゆる騎馬民族
        武内宿禰神功皇后応神天皇・・・・(いわゆる海部(あまべ)族)

       ※つまり、筆者のおとぎ話では、これらの人物こそ、
        渡来人=秦氏=『失われたユダヤの10支族』であり、
        騎馬民族と海人族による連立政権が誕生して、
        日本の歴史に深く関与してきた。

 

次回は、『倭国大乱』にみられるように、小国の連合であった倭国が、
『白村江の戦』での大敗から中央集権国家へと変化していく様子に迫っていく。

 


       ~ つづく ~