『白村江の戦』

【背景】


① 朝鮮半島と中国大陸の情勢

  6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗百済新羅の三国
  鼎立(ていりつ)していたが、新羅は二国に圧迫される存在で
  あった。

  倭国は、半島南部に領有する任那(みまな)を通じて影響力を
  持っていたことが『日本書紀』の記録から知られている。
   『宋書』では「弁辰(べんしん、弁韓ともいう)」が消えて
  438年条に「任那」が見られ、451年条には「任那加羅(から)」
  と2国が併記されていることから、倭国が「任那加羅」と関係が
  深いことを示している。
   「任那加羅」は、562年以前に新羅に滅ぼされた。
   (※加羅(から)」は「からす」に通じる暗号神武天皇の祖で
    ある日向族も「加羅(から)」から「やたがらす」に導かれて
    日本に渡ったとの伝承もあり。)

  475年には百済高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。
  当時の百済倭国と関係が深く倭国朝廷から派遣された重臣
  駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて、度々倭国から
  援軍を送られている。

  一方、581年に建国された「隋(ずい)」は、国内の反乱で618年には
  「煬帝」が殺害されて滅んだ。
   そして新たに建国されたは、628年に国内を統一した。
  唐は二代「太宗・高宗」の時に高句麗へ3度(644年、661年、667年)に
  渡って侵攻を重ね(唐の高句麗出兵)征服することになる。

  新羅は、627年に百済から攻められた際に、唐に援助を求めたが、
  この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし、高句麗
  百済が、唐と敵対したことで、新羅冊封国として支援する
  情勢となった。
  (大国「唐」に喧嘩を売った「百済」「高句麗」は無謀のように
   思える。一方、「唐」に援助を求めた「新羅」は納得するものが・・・
   これは筆者の感想であるが・・・)

  百済は、654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、
  百済義慈王百済31代、最後の王)」は飢饉対策をとらず、
  655年2月に皇太子の「扶余隆」のために宮殿を修理するなど
  退廃していた。(日本書紀にも記録あり)
   このような百済の情勢について、はすでに643年9月には
  防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた。
   659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、倭国が送った遣唐使
  洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した。

 

② 倭国の情勢

  この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化の改新最中倭国内部でも
  警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、
  唐が倭国から離れた高句麗ではなく、伝統的な友好国である百済
  海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国外交政策
  ともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で
  二者択一を迫られることになる。

 


白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)】

  白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に
  朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、
  倭国(日本)・百済遺民の連合軍」と、「唐・新羅連合軍」との戦争の
  ことである。
   戦況は明白だった。
   「唐・新羅連合軍」は、統率のとれた軍隊で、しかも「唐」は一国だけでも、
  当時の東アジアでは最大の大国だった。その大国「唐」に対し、
  倭国は地方の豪族たちが「力任せ(精神論)」で戦いに挑んだ
  (「第二次世界大戦」で大国アメリカに、武士道精神で戦いに
   挑んだようなもの=歴史繰り返された)
 
  戦いの結果は、倭国百済遺民の連合軍」の大敗となった。
  白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および
  亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、
  やっとのことで帰国した。


  ※白村江の戦いでの敗北は、モンゴル帝国との元寇と、アメリカ合衆国
   などの連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAP)による外国占領を
   招いた第二次世界大戦」と並び、日本列島が海外勢力の占領下に
   入る危険性が非常に高まった戦争であった。
    この敗戦により、倭国は日本列島の領土は奪われなかったものの、
   朝鮮半島の領地・権益を失い、外交政策・国防体制・政治体制など
   統治システムの基礎部分を根本的に変革する必要に迫られた。
    唐との友好関係樹立も模索されるとともに、急速に国家体制が
   整備・改革され、「天智天皇」の時代には近江令法令群、
   「天武天皇」の代には、最初の律令法とされる「飛鳥浄御原令」の
   制定が命じられるなど、律令国家の建設が急いで進み、
   倭国「日本」へ国号を変えた
    「白村江の敗戦」は倭国内部の危機感を醸成し、日本という
   新しい国家の体制の建設をもたらしたと考えられている。


  ※ここで、昭和天皇の逸話』を紹介する。
   1945年(昭和20年)8月に、日本が「ポツダム宣言」を受諾し
   (日本の降伏による第二次世界大戦終結)、白村江の戦いから
   1282年後に対外戦争での敗北を再び経験した。
    そして、戦勝国であるアメリカの様々な制度を導入したが、
   終戦直後の翌1946年(昭和21年)8月に、当時の「昭和天皇」は、
  「朝鮮半島に於ける敗戦の後、国内体制整備の為、天智天皇
   大化の改新を断行され、その際、思い切った唐制の採用があった。
   これを範として今後大いに努力してもらいたし。」と語り、
  再び敗戦国の国民となった日本人を励ますようにした。

 

次回は、【白村江の戦い】の大敗を教訓に、『大化の改新』から国家として
日本が変貌を遂げる『歴史的ドラマ』へと迫っていく・・・

 


           ~ つづく ~