大化の改新 ①


大化の改新(たいかのかいしん)」は、
皇極天皇(こうぎょくてんのう)」4年(645年)6月14日の
乙巳の変(いっしのへん)」に始まる一連の国政改革。
大宝元年(701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含む。
 改革そのものは、天皇ではなく、
「皇極太上(だいじょう=譲位した天皇天皇」と、
その親友とされる中臣鎌足(内臣)の主導のもと、
年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進された。

この改革によって豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと
移り変わったとされている。
 この改革により、「日本」という国号と「天皇という称号
使用が始まったとされる。また「大化」は日本最初の元号である。


  ※皇極天皇(こうぎょくてんのう)」
     重祚(ちょうそ、一度退位した君主が再び即位すること)
     して「斉明天皇(さいめいてんのう)」。
     日本の第35代・第37代天皇

  ※「乙巳の変(いっしのへん)
     中大兄皇子中臣鎌足らが、宮中で蘇我入鹿を暗殺して
     蘇我氏蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代
     政変(クーデター)。
      当時天皇を次々と擁立したり廃したりするほど、
     権勢を誇っていた「蘇我氏」を「皇極天皇」の皇居において
     「蘇我入鹿(そがのいるか)」を暗殺して滅亡させた。
      その後、中大兄皇子は体制を刷新して、『大化の改新』と
     呼ばれる改革を断行した。
      このクーデターである乙巳の変」に始まる一連の
     政治改革が「大化の改新であり、「乙巳の変」は
     「大化の改新」の第一段階でしかない。

  ※中臣鎌足
     後の「藤原鎌足(ふじわらのかまたり)」。
     日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。
     『大化の改新』の中心人物であり、改新後も
     「中大兄皇子天智天皇)」の腹心として活躍し、
     藤原氏繁栄の礎を築いた。

  ※「中大兄」
     後の天智天皇(てんぢてんのう)
     「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承
     資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味
     する語。
      『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での
     記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が
     天智天皇元年に相当する。

  ※「大海人」
     後の天武天皇(てんむてんのう)
     中大兄皇子にとっては両親を同じくする弟にあたるとされる。
     皇后の「鸕野讃良皇女(うののさららのおうじょ)」は後に
     持統天皇となった。

  ※蘇我入鹿
     「乙巳の変」で自害した「蘇我蝦夷(そがのえみし)」の子。
     大臣として大和朝廷の有力者であったが、
     乙巳の変」において討たれ、その後蘇我氏が凋落する
     きっかけとなった。
      自分の子女達を皇子と呼ばせたり、皇室行事を独断で
     代行したこと(傍若無人な振る舞い)で、皇位継承
     ライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らに
     よる乙巳の変」を招いた

 

大化の改新の第一段階】

  「蘇我入鹿」を暗殺して滅亡させた「乙巳の変(いっしのへん)」に
  より始まった。


大化の改新の第二段階】

  そして同年(大化元年)内に、初となる元号の使用
  「男女の法」の制定、「鍾匱の制」の開始、「仏法興隆の詔」の発布、
  十師の任命、および内臣・左大臣・右大臣の新設、
  私地私民の売買の禁止、飛鳥から難波長柄豊碕宮への遷都の決定など
  様々な改革が進められた。

  ※「男女の法」
     別名は良賤法(りょうせんほう)
     古代日本において良民と賤(賤民身分)との婚姻や生まれた子の
     帰属、戸籍上の扱いなどを定めた法制のこと。

  ※「鍾匱の制」(しょうきのせい)
     朝廷が投書によって人々の訴えを聞こうとした制度。

  ※「仏法興隆の詔」
     『日本書紀』によれば、「聖徳太子」二十一歳、
     摂政に就任した翌年、「推古(すいこ)」二年(五九四)の
     二月、天皇が皇太子及び大臣に「三宝興隆の詔」を下したと
     あるが、これは聖徳太子の進言によるもので、三宝
     すなわち「仏法僧の興隆」を推古天皇即位の翌年に早くも
     命じたものである。

  ※「十師の任命」
     僧侶を教導統制する10人の高僧。大化元年(六四五)に
     「唐の十大徳の制」にならって設置した。

  ※「国博士」
     大化の改新の際に「僧旻(そうびん 中国の僧)・高向
     玄理(たかむこのくろまろ)」が任ぜられた臨時職と
     思われる官名。官制整備の中枢となった。

  ※「内臣」
     内臣(うちつおみ/ないしん)は、飛鳥時代から平安時代
     初めにかけて置かれた役職で、律令政治下では令外官
     あたった。 歴史上4名が任命されているが、いずれも
     藤原氏出身である。 天皇の最高顧問天皇を擁護して
     政務の機要を掌握する大臣に匹敵する官職であったが、
     常設の官職ではなく、その職掌はその時々に応じて全く
     違うものであった。

  ※左大臣・右大臣」
     左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の
     一つ。
      右大臣(うだいじん)は、律令制で、太政大臣左大臣
     次に位し、政務を統轄した。
      太政大臣左大臣、右大臣を総称して「三公」という。
       ⇒ 後の『源平藤橘(日本史上、一族が繁栄した源氏・
         平氏藤原氏橘氏の四氏の称)へとつながっていく。
          ※謡曲鞍馬天狗(1480頃)
           「そもそも武略の誉の道、源平藤橘、四家に
            もとりわき」

  ※「難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)への
   遷都」
     摂津国(現在の大阪府北部~兵庫県南東部)難波にあった
     飛鳥時代の宮。「乙巳の変(645年)」の後、中大兄皇子
     によって企画され、652年に完成し、孝徳天皇が遷都した。

 

大化の改新の第三段階】は次回に・・・

 

 

        ~ つづく ~