大化の改新 ②

【改新の第三段階】

  翌大化2年(646年)正月には、新政権の方針を大きく4か条に
  まとめた「改新の詔」も発布された。
  改新の詔は、ヤマト政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を
  廃止し、天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容と
  なっている。

  ※「改新の詔」
     日本の飛鳥時代中期の大化の改新において、
     新たな施政方針を示すために発せられた詔。
      難波長柄豊碕宮で発せられたとされる。
     この詔は『日本書紀』に掲載されている。

   第1条 
    天皇・王族や豪族たちによる土地・人民の所有
    廃止するものである。
    ⇒ 土地・人民に対する私的な所有・支配を排除し、
      天皇による統一的な支配体制への転換。

   第2条
    政治の中枢となる首都の設置、畿内・国・郡といった
    地方行政組織の整備とその境界画定、中央と地方を
    結ぶ駅伝制の確立などについて定めるものである。
    ⇒ 次に挙げられる地方行政組織の整備は、畿内
      国(令制国)・郡の設置が主要事項だった。
      畿内とは、東西南北の四至により画される範囲をいい、
      当時、畿内令制国は置かれなかった。
      後の天智天皇の頃にようやく令制国が画定することと
      なった。

   第3条
    戸籍・計帳という人民支配方式と、班田収授法という
    土地制度について定めている。
    ⇒ 大化当時に戸籍・計帳の作成や班田収授法の施行は
      実施されなかったが、何らかの人民把握(戸口調査
      など)が実施されただろうと考えられている。

   第4条
    新しい税制の方向性を示す条文である。
    ⇒ ここに示される田の調とは、田地面積に応じて賦課
      される租税であり、後の律令制における田租の前身に
      当たるものと見られている。


  『大化の改新』には、「遣唐使」の持ってきた情報をもとに
  「唐の官僚制」と「儒教」を積極的に受容した部分が見られる。
  しかしながら、従来の氏族制度を一挙に改変することは現実的では
  ないため、日本流にかなり変更しながら適用されていった。

  政治制度の改革が進められる一方で、外交面では
  「高向玄理(たかむこのくろまろ)」を新羅へ派遣して人質を
  取る代わりに、すでに形骸化していた「任那(みまな)の調」を
  廃止して朝鮮三国(高句麗百済新羅)との外交問題を整理して
  緊張を和らげた。唐へは遣唐使を派遣して友好関係を保ちつつ、
  中華文明の先進的な法制度や文化の輸入に努めた。
  また、越に渟足柵(ぬたりのさく)磐舟柵(いわふねさく)
  設けて、東北地方の蝦夷に備えた(日本国内も内乱が続いていた)。

  ただ、改革は決して順調とは言えなかった。大化4年(648年)の
  冠位十三階の施行の際に左右両大臣が新制の冠の着用を拒んだと
  『日本書紀』にあることがそれを物語っている。
  
  ※渟足柵(ぬたりのさく)と磐舟柵(いわふねさく)
    大化3年(647年)には、渟足柵(新潟県新潟市東区辺り)
    が造られて柵戸も置かれ、翌大化4年(648年)には
    磐舟柵(新潟県村上市岩船辺り)が設置され蝦夷に備えた。

 

【諸制度の改革】

  ・薄葬令(はくそうれい)
    今まで陵墓は自由に作ることができたが、作ることの出来る
    陵墓を身分に合わせて規定し直した。殉死の禁止や、
    天皇陵の造営に費やす時間を7日以内に制限するなど、
    さまざまな合理化・簡素化が進められた。
    この薄葬令によって事実上、古墳時代は終わりを告げることに
    なる。

  ・習俗の改革
    男女の法の整理、交通問題の解決

  ・伴造、品部の廃止と八省百官の制定
    従来の世襲制の役職であった伴造や品部を廃止し、特定の氏族が
    特定の役職を世襲する制度を廃止した(たとえば、物部氏
    あれば軍事を司り、中臣氏であれば祭祀を司る、など)。
    これと八省百官の制定によって、より能力主義的な官僚制への
    移行が行われた(しかし祭祀などの面では、中臣氏がこれを行う
    というように世襲制が残った役職もあったようである)。

  ・大臣、大連の廃止
    大臣・大連は、廃止になり、代わりに太政官が置かれ、左大臣
    右大臣に置き換わった。大臣は臣の姓(かばね)から、
    大連は連の姓から出されることになっていたが、左大臣・右大臣
    (後に付け加わる太政大臣)などでは、臣・連の制約が無く
    なった。

  ・冠位制度の改訂
    聖徳太子の制定した冠位十二階を改定し、
    大化3年(647年)冠位十三階→大化5年(649年)十九階→
    天智3年(664年)二十六階へと改めた。
     これは従来、冠位十二階に含まれなかった、大臣・
    大連などを輩出する有力氏族を冠位制度へ組み込み、
    天皇を頂点とした中央集権的な序列をつける為の改革だと
    思われる。冠位の数が年々増加していったのは、
    膨大な人員を必要とする官僚制への切り替えにより、
    行政実務を担う下級官僚に与える冠位が不足したからと
    推測できる。

  ・礼法の策定
    職位に応じた冠、衣服、礼儀作法を制定した。冠位により
    身につけることの出来る衣服や礼法が決められた。
    冠位のない一般の良民は白い衣を身につける事とされ、
    これは白丁と呼ばれた。

  さらに、『白村江の戦い』で「唐・新羅の連合軍」に大敗を喫した後、
  百済高句麗は滅亡した。
   日本も朝鮮半島への足掛かりを失うばかりでなく、逆に
  大国である唐の脅威にさらされることとなった。
   中大兄皇子筑前対馬など各地に水城を築いて、
  防人や烽(のろし)を設置し、大陸勢力の侵攻に備えて
  「東の大津宮(おおみ・おおつのみや)」に遷都する一方、
  部曲(かきべ、古代の私有民や私兵などの身分のこと)を
  復活させて地方豪族との融和を図るなど、国土防衛を中心とした
  国内制度の整備に注力することになる。
   中大兄皇子は数年間称制を続けた後に、668年に即位した(天智天皇)。
  670年に新たな戸籍(庚午年籍)を作り、671年には初めての
  律令法典である近江令を施行している。
   以下は、『白村江の戦い』後の日本の外交をまとめたもの。

 

【戦後交渉および唐との友好関係の樹立】

  665年に唐のの「劉徳高(りゅう とくこう、唐の官吏)」が戦後
  処理の使節として来日し、3ヶ月後に「劉徳高」は帰国した。
   この唐使を送るため、倭国(日本)側は「守大石(もりのおお
  いわ、景行天皇皇子の「大碓命(おおうすのみこと)」の後裔を
  称する美濃国の豪族)らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。
   667年には、唐の百済鎮将「劉仁願(りゅうじんき、唐の武将)」が、
  熊津都督府(ゆうしんととくふ、唐が百済を占領後に置いた
  5都督府のひとつ)の役人に命じて、日本側の捕虜を
  「筑紫都督府(大宰府の唐風の名称)」に送ってきた。
   「天智天皇」は、唐との関係の正常化を図り、669年に
  「河内鯨(かわちのくじら、持統天皇のとき大学博士となり、
  儒学をおしえたともいわれる)」らを正式な遣唐使として派遣した。
   百済の影響下にあった「耽羅(たんら、済州島に存在した王国)」も
  戦後、唐に使節を送っており、倭国百済側として何らかの関与を
  したものと推定される。
   670年頃には唐が倭国を討伐するとの「噂」が広まっていたため、
  遣唐使の目的の一つには「噂」を確かめる為に唐の国内情勢を
  探ろうとする意図があったと考えられている。
   


【捕虜の帰還】

  684年(天武13年)、「猪使連子首(いつかいのむらじこびと)」・
  「筑紫三宅連得許(つくしのみやけのむらじとくこ)」が、
  遣唐留学生であった「土師宿禰甥(はじのすくねおい)」・「白猪史
  宝然(しらいのふびとほね)」らとともに、新羅経由で帰国したのが、
  記録に現れる最初の『白村江の戦い』における捕虜帰還である。

   690年(持統4年)、持統天皇は、筑後国上陽咩郡(かみつやぐん)の
  住人大伴部博麻(おおともべのはかま)」に対して、
  「百済救援の役で、あなたは唐の抑留捕虜とされた。その後、
  土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、
  筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)、弓削連元宝(ゆげのむら
  じげんぽう)の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上し
  たいが帰れないことを憂えた。その時あなたは、「土師連富杼(は
  じのむらじほど)」らに『私を奴隷に売り、その金で帰朝し奏上し
  てほしい』と言った。そのため、「筑紫君薩夜麻」や「土師連富杼」
  らは日本へ帰り奏上できたが、あなたはひとり30年近くも唐に留まった
  後に、やっと帰ることが出来た。わたしは、あなたが朝廷を尊び、
  国へ忠誠を示したことを喜ぶ」と詔して表彰し、
  「大伴部博麻」の一族に土地などの褒美を与えた。

 

【防衛体制の整備】

  白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇
  防衛網の再構築および強化に着手した。
   百済帰化人の協力の下、対馬や北部九州の大宰府水城(みずき)
  瀬戸内海沿いの西日本各地(長門、屋嶋城、岡山など)に
  朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には
  防人(さきもり)を配備した。さらに、667年に天智天皇は都を
  難波から内陸の「近江京」へ移し、ここに防衛体制は完成を見た。

 

【中央集権体制への移行と国号の変更】

  671年に天智天皇が急死すると、その後、
  皇位に就いた天武天皇は、専制的な統治体制を備えた新たな国家の
  建設に努めた。
   天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承され、
  701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、
  大陸に倣った中央集権国家の建設はひとまず完了した。

 

百済遺民の四散】

  天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)「鬼室福信
  (きしつ ふくしん、百済の王族)」の功により、その縁者である
  「鬼室集斯(きしつ しゅうし)」は「小錦下の位(冠位の一つ)」を
  授けられた(近江国蒲生郡(がもうぐん)に送られる)。
   百済王の一族、「豊璋王(ふよ ほうしょう、百済最後の王子)」の
  弟・「善光(ぜんこう)」は、朝廷から百済王(くだらのこにきし)」
  という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。

  ⇒ 後々、天皇(皇族)は、百済王の子孫という論調を展開し、
    以後の日本の歴史にも様々な影響(支障、謀反、反乱)が
    出てくることになる。
     皇族は「百済(くだら)と血縁関係がない」ことを、今も
    使われる言葉に残っている。『く・だ・ら・ね・え』

    そして、明治維新の立役者の一人でもあり、
    初代総理大臣となった「伊藤博文」も歴史を学んでいた。
    だからこそ、最後まで「朝鮮半島を統治下に置く、朝鮮併合」に
    反対した。


天智天皇天武天皇持統天皇までの3代にわたって、
大化の改新』~『白村江の戦い』を経て、
倭国から日本に大変革を遂げる壮大なドラマが、
かつての日本の歴史に、確かに存在した。

もし、『白村江の戦い』での敗戦で、
国策を誤ったら(というか現在のような弱腰外交を続けていたら)、
日本は消滅していた可能性がある
 おそらく、戦後、象徴となってからは政治的発言権が
なくなった「昭和天皇」の胸中は複雑だったのでは・・・

朝鮮半島に於ける敗戦の後、国内体制整備の為、天智天皇
大化の改新を断行され、その際、思い切った唐制の採用があった。
これを範として今後大いに努力してもらいたし。」

昭和天皇のお言葉である。

『温故知新』というように、過去の歴史(ねつ造ではなく真実)を
学ぶことが、いかに大事なことであるか?
 現在も、『白村江の戦い』と同様な戦後処理が続いている

 


        ~ つづく ~