『聖徳太子』と『イエス・キリスト』

日本史を語る上で、この方を抜きには語れない存在・・・
そう、お待たせしました。聖徳太子の登場です!
 とは、言っても、ここでは、筆者の個性を「フルマックス」に
発揮して斬新な切り口で切り込んでいきます!

表題にもあるように、『イエス・キリスト』と『聖徳太子』には
意外な共通点が見られるので、ここでは、「ローマー皇帝」はじめと
する「西洋の王族」に都合よく編纂された『キリスト教』ではなく、
キリスト教』の聖典『聖書』から意図的に除外(外伝扱い)され
たであろう“おとぎ話”を中心に、筆者の持論
展開する(大河ドラマを楽しむ感じで)。

 

イエス・キリスト

  『イエス・キリスト』には「マグダラのマリア(別名:携香女
  (けいこうじょ)」という妻がいた
    ということは、子孫がいても不思議はない

  『空白の18年間』
    聖書によると、イエスが12歳でエルサレム神殿を訪れた後、
    30歳ころに伝道活動を始めるまでの“約18年間”の
    記録がない。(空白の18年間ともいわれる)
     日本の古文書竹内文書、宮下文書など)によれば、
    イエスは『天の浮船(あめのうきふね)』に乗って世界巡業を
    していたという記録もある。さらに、『天の浮船』⇒
    『テンクウ・フネ』⇒『テンク』⇒『テング(天狗)』に
    なったとの伝承もある。
     古文書によれば、インド、チベット、中国、日本各地、
    中南米(ホピ族、エスキモーなどのアメリカ原住民)を回り、
    『宇宙の真理』を説いていたとも・・・
     そして、妻がいたとなれば、巡業の地で『子孫』を残して
    いても不思議はない。

  磔刑(十字架)と「七」の意外な関係』
    イエス・キリストは、弟子のひとり「ユダ(ユダヤ人と称する
    南ユダ王国のユダ族の代表)」の裏切り行為によって、
    磔刑に処せられたのだが、この磔刑から『七』という漢字が
    誕生することになる。
     十字架「(十)」の縦棒の下からしたたれ落ちる
    との)が『七』になった。だから、もともとの
    『読み』も『ひち』であった。
     ところが、明治維新のときに「都(天皇のお住まい)」を
    「東()の都」(東京)に移した(遷都した)。
     くだらない“ダジャレ”と思われるかもしれなしが、この
    とき、関東を中心に、『七』(ち)⇒『七』(ち)と読む
    ようになった。(文字通り、都を『』に移したことによる)
     参考までに、江戸時代の「岡っ引き」が持っていた『十手』
    も『十』という字が使われているが、形状は、どう見ても
    『七』の方に似ている。これは、エス磔刑(十字架)に
    由来しているというのが、筆者の持論である。

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広隆寺とキリストの関係】

  広隆寺のルーツが景教(原始キリスト教新約聖書編纂前に伝え
  られたとされる。景教空海が開いた真言宗と関連性があると
  も。)にあるという根拠が、広隆寺が建立された場所(太秦=う
  ずまさ)にある。
   『日本書紀』によると、「秦酒公(はたのさけのきみ)」が
  朝廷に税を献上する際に、絹を“うず高く積み上げた”ことに
  感動した天皇が、「禹豆満佐=うずまさ」という姓を秦氏に与え
  たのが由来であり、それに秦氏の拠点(太)という意味で「太秦
  の漢字を当てたなどと言われている。
   そして、「太秦(うずまさ)」の意味は、ヘブライ語で解釈する
  と、「自らの命をささげて処刑されたメシヤ」の意味になるという。

 

聖徳太子

  聖徳太子は、厩戸前にて出生したので、厩戸皇子(うまやどのみこ、
  うまやどのおうじ)もしくは、厩戸王(うまやとおう)と呼ばれて
  いる、飛鳥時代の皇族・政治家。
   聖徳太子」は、後世の諡(おくりな)
    ⇒ イエスも「馬宿」で生まれたとされている。
  日本書紀によれば、聖徳太子は、「橘豊日皇子(たちばなとよひの
  おうじ)」と「穴穂部間人皇女((あなほべのはしひとのひめ
  みこ)」との間に生まれた。
  「橘豊日皇子」は「蘇我稲目(そがのいなめ)」の娘
蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)」を母とし、
穴穂部間人皇女」の母は同じく稲目の娘・「小姉君(おあねの
きみ)」であり、つまり厩戸皇子』は蘇我氏と強い血縁関係にあった。
蘇我氏と言えば、「蘇我馬子(そがのうまこ)」、読んで字の
ごとく、「われ、よみがえる、うまのこ」
 592年、日本初の女帝(女性天皇)と言われる推古天皇
皇位についたとき、皇太子となった厩戸皇子聖徳太子)』
蘇我馬子』が天皇を補佐した。

推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張の
なかで遣隋使を派遣するなど、中国の文化・制度を学び、
「冠位十二階」「十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした
中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を取り入れ神道ととも
に厚く信仰し興隆につとめたとされる。

   ・592年、摂津国難波(現在の大阪)に四天王寺を建立した。

   ・594年、『仏教興隆の詔』を発した。
     「厩戸皇子」は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)
     までに三経義疏を著した。

   ・603年、「冠位十二階」を定めた。
     氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、
     天皇の中央集」権を強める目的であったと言われる。

   ・604年、「十七条憲法を制定した。
     豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、
     仏法を敬うことを強調している。

   ・607年、屯倉(みやけ、朝廷の直轄地)を各国に設置する。
     高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、
     山背国栗隈に大溝を掘る。

   ・607年、小野妹子」を使者とし随に『国書』を送った。
     翌年、返礼の使者である「裴世清(はいせいせい)」が訪れた。
     「日本書紀」によると「裴世清」が携えた書には
     「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。
     これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の
     皇帝に敬まひて白す)とあり、隋が「倭皇」とした箇所を
     「天皇」としている。この返書と「裴世清」の帰国のため、
    妹子らを再び隋へ派遣した(遣隋使の始まり)。

      ※『国書』に書かれていたのは、有名な内容。
        「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。
        恙なきや。」
         ⇒ 当時の隋は大国であり、軍事力もあった。
           高句麗を攻め、領土にしようとしていた。
           「国として中国と対等な日本」にするという
           強い意志の表れで、国として独立するという
           「国づくりの方針」を示したもの。

 

  「豊聡耳(とよさとみみ)」

   「厩戸皇子」が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を
   開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が
   発した言葉を漏らさず一度で理解し、的確な答えを返したという。
    この故事に因み、これ以降皇子は「豊聡耳(とよさとみみ)」
   とも呼ばれるようになった。(10人は、『失われた10支族』とも)


  「兼知未然」

   『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて
   未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に
   「未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)」の存在が
   噂される一因となった。
    しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の
   架空の書か風聞の域を出ないものと言われている。江戸時代には、
   人心を惑わす偽書であるとして幕府により禁書とされ、
   編纂者の潮音らが処罰された『先代旧事本紀大成経』にある
   『未然本記』も未来記を模したものとみることができる。


  「出生について」

    「母・間人皇女(はしひとのひめみこ)は、西方の
    救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り、厩戸を
    身籠もった」(受胎告知)などの太子出生伝説に関して、
    「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教キリスト教
    ネストリウス派)が日本に伝わり、その中からイエス誕生の
    逸話が聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える
    研究者(久米邦武が代表例)もいる。
     しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が
    流入した影響と見なす説が主流である。
     出生地は橘寺(たちばなでら)、またはその付近とされる。
    橘寺は「田道間守(たぢまもり、菓子の神とも)」が
    「垂仁(すいにん)天皇」の御世に、常世の国から持ち帰った
    橘の実の種を植えた場所といわれる。


  四天王寺

    大阪市天王寺区。『日本書紀』によれば、蘇我氏物部氏の戦いに
    おいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、四天王を
    安置する寺院を建てると誓願を立てた。
     見事勝利したので、摂津国難波に四天王寺を建てた。
    なお、聖徳太子の佩刀(はいとう)とされる「七星剣」と
    「丙子椒林剣(へいししょうりんけん)」が現在、四天王寺
    保管されている。
     本尊は救世観音で、四天王寺では聖徳太子の念持仏の
    「如意輪観音(にょいりんかんのん)」とも同一視される。
    

  法隆寺

    奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺は「用明(ようめい)天皇」が
    自らの病気平癒のため建立を発願したが、志を遂げずに崩御
    したため、遺志を継いだ推古天皇聖徳太子が、
     推古天皇15年(607年)に寺と薬師像を造ったという。
    『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したとの
    記事がある。この記事をめぐり、現存する法隆寺(西院伽藍)は、
    聖徳太子の時代のものか、天智天皇9年(670年)以降の再建かに
    ついて長い論争があったが、「若草伽藍(わかくさがらん)」の
    発掘調査により、聖徳太子時代の伽藍(がらん=寺院の建物の
    こと)は一度焼失し、現存の西院伽藍は7世紀末頃の再建である
    ことが定説となっている。
     「夢殿」を中心とする東院伽藍は太子の営んだ「斑鳩宮(い
    かるがのみや)」の旧地に建てられている。

     ※再建であっても、「西院伽藍」は現存する世界最古の
      木造建築物群。


  「大工の祖」

    聖徳太子は大工の祖だとされている。
     現存世界最古の木造建築物を有する法隆寺奈良県斑鳩町)などを
    建立したことや、大工道具・曲尺(かねじゃく。矩尺)を広めたこと
    などが、その理由とされている。(世界的に有名な秘密結社との
    関連もささやかれている・・・)

     ⇒ 「キリスト」も大工であった。
        (「マタイの福音書」と「マルコの福音書」に、
        「郷里の人々の言葉」として書かれている。)


聖徳太子の後、『大化の改新』~『白村江の戦い』を経て、
天智天皇天武天皇持統天皇によって、「倭国から日本に」大変革を遂げ、
日本の政治基盤の確立につながっていった。
 しかしながら、この後も皇位継承や権力をめぐる闘争が断続的に続き、
預言者道鏡」も現れ、皇室の危機を救う英雄が
登場する『ドラマ』も実在した。

 

 

       ~ つづく ~