『皇位をめぐる最大の危機』

時代は奈良時代
710年に平城京に遷都した後、女性天皇に近づき、
皇位を狙う僧侶が現れ、皇室の最大の危機が訪れる。


聖武(しょうむ)天皇」と「光明(こうみょう)皇后(藤原氏の出自)」の
間には、ついに男子が育たず、皇子がいなくなったことで、
天平10年1月13日(738年2月6日)に、「阿倍内親王」が立太子し、
史上唯一の女性皇太子となった。
その後、天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位し、
孝謙天皇(こうけんてんのう)」(女性天皇)が誕生した。

天平宝字5年(761年)、平城宮改修のために都を一時的に
近江国保良宮(おおみこく ほらのみや)に移した際、
孝謙天皇が病気を患った。このとき、孝謙天皇の傍らで
看病していたのが『道鏡(どうきょう)』であった。
 この看病がきっかけで、孝謙天皇道鏡は“恋仲”になり、
道鏡は朝廷で絶大な権力を持つことになる。

 


道鏡(どうきょう)】

  奈良時代の僧侶。俗姓から、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも
  呼ばれる。弓削氏は弓を製作する弓削部を統率した氏族。
  複数の系統があるが、道鏡の属する系統(弓削連)は、
  物部氏の一族とされる。

   道鏡は、文武天皇4年(700年)に 河内国若江郡(現在の
  大阪府八尾市)に生まれた。法相宗(ほうそうしゅう 唐時代
  創始の大乗仏教)の高僧・義淵(ぎえん)の弟子。
   病気を患った孝謙天皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、
  その寵を受けることとなった。
  763年、慈訓(じくん 奈良興福寺の僧)に代わって
  少僧都(しょうそうず 律令制の僧官の位の一つ)に任じられ、
  764年には「太政大臣禅師」に任ぜられた。翌年には法王となり、
  仏教の理念に基づいた政策を推進した。
   対して、道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対する
  反感もあり、藤原氏らの不満が高まった。
  
  かくして、朝廷内で絶大な権力についた道鏡は、皇位をも狙うように
  なる。宇佐八幡宮神託事件である。
   権力を利用して、宇佐八幡宮に脅しをかけ、
  大宰主神(だざいのかんづかさ)の「中臣習宜阿曽麻呂(なかとみの
  すげのあそまろ)」が、「宇佐神宮より、道鏡天皇の位につければ、
  天下は泰平になる』との神託があった」と伝えた。
   しかし、『和気清麻呂(わけのきよまろ)』が勅使として参向し、
  この神託が“虚偽”であることを上申したため、道鏡皇位
  就くことはなかった。(危機一髪で、天皇家の血筋が守られた)

 


和気清麻呂(わけのきよまろ)】

  備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。

  神護景雲3年(769年)7月頃に宇佐八幡宮の神官を兼ねていた
  大宰府の主神(かんづかさ)・「中臣習宜阿曾麻呂(なかとみの
  すげのあそまろ)」が宇佐八幡神の神託として、
  『孝謙天皇が寵愛していた道鏡皇位に就かせれば天下太平になる』
  と奏上する。(道鏡が「習宜阿曾麻呂」を唆して託宣させたともされる)
   「孝謙上皇」は神託を確認するため、清麻呂に「宇佐八幡宮へ赴き
  神託を確認するよう」に勅した。
   清麻呂は出発にあたって、道鏡から、吉報をもたらせば官位を
  上げる(大臣に任官するとも)旨をもちかけられたという。
   だが、清麻呂道鏡の脅しに屈することなく、主君(天皇)のために、
  命令を果たす気持ちを固めて八幡宮に参宮する。
   清麻呂が宝物を奉り「宣命天皇の命令)」を読もうとした時、
  神が「禰宜(ねぎ)」の「辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)」に
  託宣、宣命を聞くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて
  与曽女(よそめ)に宣命を聞くように願い出て、与曽女が再び神に
  顕現を願うと、身の丈3丈(約9m)の満月のような形をした大神が
  出現する。清麻呂は与曽女とともに大神の神託
  「天の日継(ひつぎ 皇位継承の意)は、必ず帝の氏を継がしめむ。
  無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、
  孝謙上皇(後の称徳天皇)へ報告した。
   道鏡と「恋に落ちていた」孝謙上皇は、清麻呂の報告に怒り、
  清麻呂因幡員外介因幡の国)に左遷するが、さらに
  「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させて
  大隅国(現在の鹿児島県の大隅半島屋久島、種子島奄美大島などを
  含む西海道の一国)への流罪とした宇佐八幡宮神託事件
   さらに、「口封じ」のため、道鏡は配流途中の清麻呂を追って
  暗殺を試みたが、急に雷雨が発生して辺りが暗くなり、殺害実行の前に
  急に勅使が派遣されて企みは失敗したともいう。
 
  だが、この清麻呂の『命がけ』の意志と言動が朝廷内の家臣たちに伝わり、
  清麻呂が朝廷に持ち帰った『大神の神託』を再調査することとなる。

  神護景雲4年(770年)8月に称徳天皇孝謙上皇)」が崩御して
  後ろ楯を無くした道鏡が失脚すると、9月に清麻呂大隅国から
  呼び戻されて入京を許され、翌宝亀2年(771年)3月に従五位下に復位し、
  9月には播磨員外介に次いで豊前守に任ぜられて官界に復帰した。

  清麻呂楠木正成などとならぶ勤皇の忠臣と見なされている。

 

産経新聞は、皇統の断絶という日本最大の危機を救った人物と評したことも。

もしも「和気清麻呂」が当初の神託通り、「道鏡皇位につかすべし」と
いう報告を持ち帰っていたら・・・道鏡天皇が誕生し、
天皇家万世一系ではなくなってしまっていた、
いやそもそも天皇制そのものが崩壊していたかもしれない。


さらに、明治天皇たっての『強い要望』もあって、東京都千代田区大手町の
大手濠緑地(皇居のお堀のほとり、気象庁付近)に、
和気清麻呂(わけのきよまろ)」の銅像が建てられた。

 ※とくに、明治以降、女性天皇を禁じてきた『最大の理由』は、
  和気清麻呂が命がけで持ち帰った大神の神託にある。
  「天の日継(ひつぎ 皇位継承の意)は、必ず帝の氏を
  継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」

  『帝の氏』とは、日本人固有の遺伝子Y染色体にしか存在しない
  “Dの遺志”ともいわれるYAP遺伝子)のことでもある。
   (ゆえに、皇位継承者は、男系に限られる)

『日本人』として、この事実は知っておいてほしいと筆者も願うところである。

 

          ~ つづく ~