平安京とエルサレム
【平安京の名前】
京都は、桓武天皇(737年~806年)が、780年に平城京(奈良)で即位後、
784年には長岡京(京都盆地の西部)へ遷都、のち10年後の794年には、
平安京(京都)に2度目の遷都をされて以来、明治維新に至るまで
1074年におよぶ首都だった。
京都は、「桓武(かんむ)天皇」により、山城の地に新たな都が
築かれた時、『平安京(へいあんきょう)』と呼ばれていたが、
これは「遷都の詔(みことのり)」の中に、民衆が新都を讃美して、
このように唱(とな)えたとある。これは天皇と国家の永遠の平和を
祈願するものであり、一般には京(きょう)または都(みやこ)と
呼ばれていた。11世紀末からは、平安京にかわる都の地名として、
京都が使用されるようになった。
日本書紀によると、わが国は、紀元前660年、初代「神武天皇」即位に
よる大和の統一国家が成立して以来、常に天皇のもとに国として永く
続いてきたので、京・都・京都といえば、それはただちに首都
そのものを指した。
平安京のあった京都の近くには「琵琶湖」がある。
同様にイスラエルの「エルサレム」から少し北上すると、
「キネレット湖」と呼ばれる湖がある。
この湖は日本語では「ガリラヤ湖」と呼ばれ、
イエス・キリストが福音を伝えた場所だった。
このヘブライ語の「キネレット」を訳すと、楽器の
「琵琶」や「竪琴」を意味する。
つまり、「琵琶湖」=「ガリラヤ湖(キネレット湖)」!
一方、「エルサレム」は、ヘブライ語に訳すと「エル・シャラーム」
となり、その意味は「平安の都(京)」。
つまり、『失われた10支族』が遠い故郷(古代イスラエル
王国)をしのび、その理想郷を求めて日本の地(京都)に、
「平安京(エルサレム)」を遷都した!
【花見について】
現在のように、「お花見」が桜を見ることを指すようになったのは
平安時代のこと。
万葉集の時代までに詠まれた歌における「花」は梅で、古今和歌集
以降のものに出てくる「花」は桜となる。実際、万葉集において梅を
題材にした歌は110首、桜を題材にした歌は43首と梅が桜の
倍以上になる。
これは、梅と桜の原産地の違いからくるもので、桜は日本古来の花で
あるのに対して、梅は奈良時代に中国から遣唐使によって伝わったもの。
そして、遣唐使が廃止されると共に「花」は桜のことを指すように
なった・・・という経緯がある。
また、奈良時代の梅を見るお花見というのは、花の美しさを愛でると
いうよりも神事としての意味合いが強く、厄払いのために行っていたので
あまり楽しいものではなかったらしい。
これが平安時代になり、花が「桜」のことを指すようになってから
変わっていった。
平安時代の歴史書「日本後紀」によれば、「嵯峨天皇」が812年に催した
「花宴の節」というものが、桜による「お花見」の起源とされている。
「嵯峨天皇」は大の桜好きで、地主神社に毎年桜を献上させるほど
お気に入りだった。
視点を変えると、奈良時代から平安時代に代わるころ、
日本の素性(『失われた10支族』の存在など)を隠す目的もあり、
『うめ(有名な世界的秘密結社のソンボルを暗示)』から、
『さくら』に変えたという説もあり(下図のシンボル参照。左が有名な
シンボル、右が「梅干し」入りのおむずび)。
※「うめ」=「うめた」「め」の略語を漢字「梅」にあてたもの。
縄文人は、人類史上最古の『石工職人』集団であり、
その縄文人の子孫と大陸から帰還した渡来人(先祖は縄文人)に
よって造られた国家が『日本』(世界最古の『石工職人(大工)』
国家)。
また、余談であるが、「嵯峨天皇」の子孫を簡単に掲載しておく。
吉田茂(吉田家へ養子) → 麻生太郎(孫 現在の副総理大臣)
~ つづく ~