平安時代の貴族と武士の誕生

平安時代は、華やかな貴族文化が花開いた時代でもあった。

 

【貴族】

  具体的な呼び名が登場するのは、701年に制定された「大宝律令
  からだった。五位までの官位のものたちを「貴」という言葉で
  読んだことから「貴族」という概念が誕生したと考えられている。

  平安時代には遣唐使が廃止され、日本古来の美的感覚をもっと
  盛り上げようという気運が高まっていた。
   そうした背景から、国風文化が興り、それは住居など建築物にも
  影響していった。貴族の中でも特に位の高いものたちは、
  寝殿造り」という特別な屋敷に住んでいた。
   南向きの縁起や日当たりの良い好立地に寝殿を配置し、家長と
  なる男性が主に暮らしていた。東対、西対、北対と小振りな建物を
  行き来するために渡り廊下が敷かれ、月宮釣りをするための
  釣殿(今でいうところのバルコニー)と呼ばれるものが設置されて
  いた。寝殿造りは現代においても文化遺産として多数残されている。

  平安時代の貴族というのは、いまでいうところの政治家や公務員の
  ようなもので、お役所である宮中に勤務し、国政に関わることや
  事務的な雑務をしていた。
   ただし、現代の政治家や公務員とは違って、当時の貴族たちは
  それほど仕事熱心とは言えなかったようだ。(午前7時ごろに
  出勤し、およそ4時間程度で終業)
   そして自宅に戻ってお昼を食べて、ゆっくりと夕飯まで待ち、
  食べて眠くなったら寝てしまう…そんな生活を送っていた。
   そして、この『空き時間(今風に言うと、アフターファイブ)』
  こそが、貴族たちが才能を開花させていく貴重な時間でもあった。
  この『空き時間』に和歌を詠んだり、蹴鞠(けまり)を蹴ったり、
  月見をしたりと、一見遊んでいるように見えて実は自分磨きを
  していた(源氏物語枕草子などの芸術文学などが、花開いて
  いった)。

  ≪代表的な人物≫

    紫式部(むらさきしきぶ)
     恋愛小説の決定版とも言える『源氏物語』の作者。

    清少納言(せいしょうなごん)
     随筆として名高い『枕草子』の作者。

    藤原道長(ふじわらのみちなが)
     大きな権力を持った「藤原氏」の中で、もっとも栄華を
     極めた人物。
      道長は右大臣、左大臣を経て、天皇の生母の勧めもあって
     摂政にまで上り詰めた。(道長は、自分の娘を次々と天皇
     后として差し出した=「政略結婚」によって成り上がった
     人物でもあった)
      だが、藤原氏が権力を独占する陰で、衰退していった(表
     向き)のが「橘(たちばな)氏」だった。

    橘(たちばな)氏
     橘氏は、「縣犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)」が、
     「橘宿禰(たちばなのすくね)」の氏姓を賜り「橘三千代」を
     名乗ったところから始まる。
      三千代と「敏達(びだつ)天皇」の後裔である
     「美努王(みぬおう)」の間に生まれた子、
     「葛城王(かずらきのおおきみ)が臣籍降下した
     橘諸兄(たちばなのもろえ)」は、橘氏の中で最も有名
     人物である(左大臣まで昇進)。
      さらに諸兄の後も、諸兄の子(奈良麻呂 ならまろ)の
     孫娘(嘉智子 かちこ)が嵯峨天皇の「檀林(だんりん)皇后」
     になると、橘氏は再び躍進していった(藤原氏との対立も)。

     ※嵯峨天皇」の子が臣籍降下して誕生したのが「源氏」
      ということは、橘氏は源氏の「祖」でもある。
      
      橘氏藤原氏との政争(表向き)で衰退し、朝廷(表の政治)
      から姿を消した。(筆者の家系の言い伝えでは、「平安」を
      祈願して遷都した『平安京』の名の通り、藤原氏に政治を
      ゆだねて身を引くことが、天皇の意に沿うことと考え、
      橘氏は「橘姓」を捨てて、故郷の「吉備国」に帰郷した。
       このとき、家紋も「橘紋」から「浮線蝶(ふせんちょう)」
      に変えている)

 

【武士】

  平安時代も後期(終盤)になると、「武士」と言われる身分も
  誕生した。
   律令制度が確立され、武力・軍事力を行使するのは「武官」
  仕事だったが、「武士」という専門的先頭集団が生まれたことで
  時代は大きく変化していった。
   はっきりしておかなくてはいけないのが、平安時代までの
  「武官」とそれ以降の「武士」の違いについて。

  「武官」で有名なのが「征夷大将軍」に任命され大きな功績を
  挙げた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」
   彼は朝廷に使える官人であり、あくまでも役人にすぎなかった。
  律令制の中で生まれた(今で言う)公務員であり、蝦夷討伐では
  公的な仕事の一環として武功を挙げた。

  では武官から武士の時代に突入した平安時代末期、武士は、
  どのようにして生まれたのか?
   主に3つの学説が大勢を占めていますが、どれもが正しく、
  どれもが不十分と指摘されている。

  学説①
    地域を封建的に治める大農園主が、武装をした。
     ⇒ かなり有力な学説ではあるが、源氏や平氏といった、
       時代を動かした武士の起源を説明することはできな
       いという指摘もある。

  学説②
    家業として武芸を身につけていった専門的な武装集団があり、
    国家から認定された軍事的な下請け業者が起源とする説。
     ⇒ こちらも有力ではあるが、地方武士に関しては説明が
       つかない。

  学説③
    国衙軍制論と呼ばれるもの。
     平安時代の中期頃から、租税の徴収を朝廷から請け負う
    田堵負名(たとふみょう)という存在があった。
     武士の出現期、彼らは地域の田堵負名の命を与えられて
    いて、徐々に経済的な基盤を作り上げていって、領主とし
    ての体勢を獲得するに至った、という説。


  ≪源氏と平家≫
    なぜ源は「氏」で平は「家」なのか?

    本姓であるとは、皇族が臣籍(天皇の家来・仕える者)に
    下る臣籍降下」にあたって下賜された姓のこと。
     天皇や皇族は姓を持たなかった(戸籍がない)ので、
    臣下となる際に「姓」をつける必要があった。
    源姓を名乗った一族はたいへん多かったため、源家の総体と
    して源氏と呼ばれていた。

    一方平家とは、政権を打ち立てた平清盛とその一族、
    さらには仕えている者たちも含めた政権・軍事の一団
    ことをいう。そのため、平家の中には清盛らに仕えていた
    藤原氏や源氏の武士もいた。つまり、平家とは平氏の中の
    一部でありながら、平氏以外の外部の者も多くいたことに
    なる。これゆえ、平氏+他氏(藤原氏、源氏など)”
    集団を意味する「平家」と呼ばれるようになった。

    「源平の合戦」に至った両者の宿怨とは、このように臣籍に
    下りた氏族であるという、同等の格による強いライバル関係に
    因るところが根底にあったとされている。
     しかし、臣籍降下した皇族は、平氏においては、天皇
    孫以降の代が多かったことから、源氏の方が格上とする見方も
    あった。このことに因る優越感と劣等感のアンバランスさも、
    源平両氏の運命を左右したのではないかとされている。

 

          ~ つづく ~