頼朝と義経

源頼朝

  1147年4月8日、源義朝の三男として尾張国熱田(現在の名古屋市
  熱田区)の熱田神宮西側にあった神宮大宮司藤原季範(すえ
  のり)の別邸(現誓願寺)にて生まれる。幼名は鬼武者、または
  鬼武丸(おにたけまる)。
   父である源義朝の直系は清和天皇につながる(臣籍降下)。
  母は藤原季範(すえのり)の娘の由良御前(ゆらごぜん)

  父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で
  以仁王(もちひとおう)の令旨を受けると、北条時政
  北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠と
  して関東を制圧する。
   弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・
  源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、
  奥州合戦奥州藤原氏を滅ぼす。
  1192年に征夷大将軍に任じられる。

 

源義経

  清和源氏の流れを汲む河内源氏源義朝の九男として生まれ、
  「牛若丸」と名付けられる。
   母・常盤御前は九条院(藤原呈子(しめこ))の雑仕女(貴族
  に仕える召使)であった。(兄の頼朝とは異母兄弟

  父は平治元年(1159年)の平治の乱で謀反人となり敗死する。
  その係累の難を避けるため、数え年2歳の牛若は、母の腕に抱かれて
  2人の同母兄・今若と乙若と共に逃亡し大和国奈良県)へ逃れる。
   後に常盤は公家の一条長成に再嫁し、牛若丸は11歳の時に
  鞍馬寺京都市左京区)へ預けられ、稚児名を
  「遮那王(しゃなおう)」と名乗った。
  やがて遮那王は僧になることを拒否して、鞍馬寺を出奔し、
  1174年3月3日桃の節句(上巳)に、鏡の宿に泊まって自らの手で
  元服を行い、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍藤原秀衡(ひでひら)を
  頼って平泉に下った。
   1180年8月17日に兄・源頼朝伊豆国で挙兵すると、その幕下に
  入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。
   秀衡から差し向けられた佐藤継信(つぐのぶ)・忠信兄弟等およそ
  数十騎(有名な騎馬隊)が同行した。義経富士川の戦いで勝利した
  頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で涙の対面を果たす。
  頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼(のりより)に遠征軍の指揮を
  委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の経営に専念する
  ことになる。
   源平合戦の最中、義経は頼朝の周旋により河越重頼(かわごえ
  しげより)の娘(郷御前 頼朝と義経が対立したのちも義経
  逃避行に従い、最期を共にした女性とされる)を正室に迎えた。

 

奥州藤原氏

  前九年の役後三年の役の後の1087年から源頼朝に滅ぼされる
  1189年までの間、陸奥(むつ)平泉を中心に、東北地方一帯に
  勢力を張った藤原北家の支流の豪族。藤原北家秀郷(ひでさと)流を
  称した。初代当主は藤原清衡(きよひら)
   奥州藤原氏が実際に藤原氏係累であるかについては、近年の
  研究では藤原経清(つねきよ)について、1047年の五位以上の
  藤原氏交名を記した『造興福寺記』に名前が見えており、当時の
  藤原摂関家から一族の係累に連なる者と認められていたことは
  確認されている。

  清衡は、朝廷や藤原摂関家砂金や馬などの献上品や貢物を欠かさな
  かった。そのため、朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの事実上の
  奥州支配を容認した。
   奥州藤原氏は、中央から来る国司を拒まず受け入れ、奥州第一の
  有力者としてそれに協力するという姿勢を最後まで崩さなかった。
  そのため奥州は朝廷における政争と無縁な地帯になり、奥州藤原氏
  奥州17万騎と言われた強大な武力と政治的中立を背景に、源平合戦
  最中も平穏の中で独自の政権と文化を確立することになる。
   その政権の基盤は奥州で豊富に産出された砂金と北方貿易であり、
  北宋沿海州などとも独自の交易を行っていたようである。
  (1124年に清衡によって建立された中尊寺金色堂は有名)

  秀衡は平治の乱で敗れた源義朝の子・源義経を匿い、1185年に、
  源頼朝に追われた義経は秀衡に再び匿われた。
   秀衡は頼朝から出された義経の引渡要求を再三再四拒んできたが、
  秀衡の死後、息子の藤原泰衡(やすひら)は、頼朝の要求を拒み
  きれず文治5年(1189年)閏4月義経を自殺に追い込み、義経の首を
  頼朝に引き渡すことで頼朝との和平を模索した。(表向きの歴史)

  しかし、関東の後背に独立政権があることを恐れた源頼朝は、
  1189年7月、義経を長らく匿っていたことを罪として奥州に出兵。
  贄柵(秋田県大館市)において家臣の造反により泰衡は殺され、
  奥州藤原氏は滅んだ。

 

※ここまでは表向きの歴史であるが、実際は義経は生きて北海道に
 渡った記録が残されている。頼朝は海軍(軍港)を増強していた
 痕跡もあり、このときすでに朝廷(裏天皇組織)とも連絡を密に
 しながら、大東亜共栄圏』を目指していたが、道半ばで頼朝は
 暗殺されてしまう。
  そして、兄・頼朝の遺志を継いだ義経が、北海道から大陸へ渡り、
 再び強力な『騎馬隊』を結成してモンゴル帝国を築いた。
 (後の『元』王朝)
  そう、義経=チンギス・ハン説』である。


  次回は、歴史の裏側に隠された、頼朝と義経が目指した
  大東亜共栄圏』=モンゴル帝国元王朝に迫る。

 

 

       ~ つづく ~