頼朝と義経が目指した『大東亜共栄圏』

源氏の祖でもある橘氏(犬養一族)は、もともと
「海を渡った縄文人(海人族=あまぞく)」だった。

 ① 長江文明を引き継いだ『呉』春秋戦国時代に敗れると、
   命からがら故郷である「日本」に帰還し、水田による稲作と
   『呉服』を伝えたものたち

 ② 北イスラエル王国が滅亡したときにシルクロードを東に進み、
   「日本」に帰還した『失われた10支族』

 ③ 徐福とともに大船団で帰還した『秦人』=『失われた10支族』に
   分かれて、故郷である「日本」に帰還した「海人族」

彼らが、大陸(レプティリアンによって造られた“強欲な王族と軍隊”の
支配)から、日本を守り抜く知恵と武力を模索してきたところに、ついに
平安時代末期に源氏の出現により、アジア最強の武士(騎馬隊)
誕生した。
 そこで、頼朝は、先祖から受け継いできた“造船技術”と航海術を
軍備に利用するべく、源平合戦の最中から準備を進めていた。
 義経騎馬隊(地上部隊)と頼朝の海軍が手を組めば、史上最強の
軍隊が完成する算段だった。
義経の騎馬隊には、奥州藤原氏の協力が必要だった)

頼朝は熱海~相模湾一帯に軍港を整備していた。
 そして、戦艦50隻(海兵隊3,000人)以上をすでに配備していた。
 ※熱海の海底遺跡が、鎌倉時代の人工物(軍港)を物語る。
  ⇒ 『源頼朝の本当の正体!!熱海海底遺跡に秘密の痕跡が!?』

表向きは鎌倉幕府の守備であったが、その背後には大陸へ進出し、
日本主導の統一国家を大陸に樹立することにあった。
八紘一宇の理念による、大東亜共栄圏

そこで、源平合戦で源氏が勝利したのち、義経を討伐すると
見せかけて(大芝居)、平泉の奥州藤原氏に匿ってもらうふりをしながら、
身代り(義経の首は別人)を建て、義経本人は北海道に渡り、
頼朝が準備した船(船団)で騎馬とともに海を渡った(モンゴルを
目指した)。


その後、頼朝は義経が恩義を感じていた「藤原秀衡(ひでひら)」が
死去し、息子の藤原泰衡(やすひら)が後を継いだタイミングで、
朝廷に許可をもらい“皇軍”として、奥州藤原氏を討伐した。

奥州藤原氏北宋(当時の中国王朝)と貿易していた都合上、
頼朝と義経の計画が密告される恐れがあった。
この大東亜共栄圏は、朝廷(歴代天皇)の悲願でもあった。
ただ、義経の心中は穏やかではなかった。
これが後の“元寇”につながっていく。

モンゴルに辿りついた義経は、モンゴルに帰化し、
『チンギス・ハン』と呼ばれるようになる。
 だが、モンゴル帝国を目指す最中に兄・頼朝の暗殺を知る。

 

義経と『チンギス・ハン』、そしてフビライの関係】

  「チンギス」は「荒れ狂うを意味し、「ハン」には「王」という
  意味がある。
   だが、モンゴル人は本来、遊牧民族で船はおろか、海を渡ることも
  漁業を営むこともない。すなわち、「チンギス」は元来の
  モンゴル民族ではないことも意味している。
   「チンギス・ハン」は「荒れ狂う海を支配する王」を意味し、
  これは海を渡ってきた『支配者』、そう義経につながる。

  この「チンギス・ハン」という名前は、本名ではなく、
  彼がモンゴル帝国の皇帝に即位したときに、シャーマンによって
  付けられた称号であり、王としての名前であった。
  (本名は「テムジン」

  モンゴル帝国は1206年に「チンギス・ハン」が建国して以来、
  1634年に皇帝即位が終わるまで約430年にわたって栄えた国家。
   最盛期にはヨーロッパの一部からトルコ、アフガニスタン
  中国、朝鮮半島までを征服し、地上の四分の一を領土とした
  人口総数1億を超える大帝国となった。(ローマ帝国にも脅威を
  与えた)
   このモンゴル帝国の出現により、西洋人は日本の「武士」にも
  警戒心を持つようになる。(大陸では、モンゴルの騎馬隊=
  日本の武士と捉え、世界最強の軍隊とみられていた)


  ※「チンギス・ハン」と義経の共通点

   ① 家紋の一致(ともに源氏紋=笹竜胆を使用)

   ② 「クロー」という愛称
     「チンギス・ハン」には義経の別名「九朗」と同じ愛称があった。

   ③ 両者の生きた年代や体格が酷似。
      とくに、「チンギス・ハン」については、出生や前半生の記録が
     ない(謎だらけの人物とされている)。

  さらに、「チンギス・ハン」の子孫は、
  「アルタンウルク(黄金の一族)」と呼ばれ、
  男系即位として皇帝が引き継がれていった。

  中でも特に有名なのが、「チンギス・ハン」の孫に当たる
  「フビライ・ハン(クビライ・カン)」。
   彼はモンゴル帝国の第五代皇帝であり、中国の大国「元王朝」の
  初代皇帝になった人物として有名。

 

かくして、本来は、頼朝(海軍)と義経(陸軍)の兄弟が
協力しながら大陸を支配し、大東亜共栄圏を目指す計画が、
頼朝の暗殺により、夢半ばに終わり、海からの援軍を失った
義経の陸軍(騎馬隊)帝国=モンゴル帝国」は、やがて分裂していき、
中世になるとヨーロッパによる植民地化が進んでいった。

そんな状況で、日本では源氏に変わり「北条氏」が執権となって
幕府政治を受け継いでいた。

元王朝の皇帝フビライは、大陸の支配を維持するには、
頼朝が残した海軍が必要と考え、北条氏に密使を送っていた時、
高句麗から「日本攻撃」の依頼を受け、日本海軍と武士を
試す“賭け”に出た。これが元寇の真相である。

 


        ~ つづく ~