執権・北条氏の滅亡まで

北条氏が執権となってからは、内紛の連続だった。


【1205年(元久2年) 畠山重忠(はたけやましげただ)の乱】

  武蔵国の有力御家人・「畠山重忠」が、武蔵掌握を図る北条時政
  策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされた事件。


【1213年(建暦3年) 和田合戦】

  鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛(わだよしもり)」の
  反乱。打倒相手は北条氏。
   しかし、この反乱は失敗に終わり、北条氏の執権体制はより
  強固なものとななった。


【1221年(承久3年) 承久の乱六波羅探題の設置】

  後鳥羽上皇鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて兵乱を起こす。
  しかし結果は返り討ちにあい、幕府が勝利した。
   さらに、この兵乱をきっかけに、朝廷の動きを監視する職として
  六波羅探題を設置した。主な職務は「朝廷の監視活動」

   ※「探題」はもともと、裁決を行う機関だったが、
    『六波羅探題』の場合は「スパイ活動」を意味する。
     一方で、六波羅』は当て字で、帰化した異邦人が
    “カタカナ表記”を漢字にあてたもの。
    『六波羅(ろくはら)』を当て字にした異邦人一族とは・・・
    「ろくはら」・・・「ロックハラー?」
     なんと、北条氏は朝廷を監視する役職を設置したはずが、
    日本を監視するスパイを海外から呼び込んでしまうという、
    大失態を犯した。


【1247年(宝治元年) 宝治合戦

  「執権・北条氏」と「有力御家人・三浦氏」の対立から、鎌倉で
  武力衝突が起こり、北条氏と外戚(北条氏の母方の親戚)「安達氏」ら
  によって、三浦一族とその与党が滅ぼされた。
   北条氏最強(独裁政権)は続く。
   この結果を契機に、十三人の合議制は廃止され、
  「北条得宗(とくそう 鎌倉幕府の北条氏惣領の家系)」による
  専制政治が確立した。


【1272年(文永9年) 二月騒動】

  蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉と、京で起こった北条氏一門の内紛
  (源平合戦の再来とも・・・平氏本家筋の執権・北条氏と、権力から
  見放された分家・北条氏との身内の内紛)。
   この内紛の結末は、執権「時宗」に対する反抗勢力が一掃されること
  となり、「得宗家(北条氏惣領の家系)」の権力が強化された。


【1274年(文永11年) 文永の役

  1回目の元寇(蒙古襲来)。詳細は前回のブログ記事参照。


【1281年(弘安4年) 弘安の役

  2回目の元寇(蒙古襲来)。詳細は前回のブログ記事参照。


【1285年(弘安8年) 霜月騒動

  御家人一族との北条氏最後の戦い。見事に勝利し、権力を磐石な
  ものとした。
   幕府創設以来の有力御家人政治勢力は壊滅し、
  「平頼綱(よりつな 北条得宗家に仕えた武士)」率いる「得宗家」
  被官勢力の覇権が確立した。


【1293年(正応6年) 平禅門(へいぜんもん)の乱】

  鎌倉幕府を支配する北条氏得宗家の内管領として絶大な権勢を
  振るった「平頼綱」が、主君である9代執権「北条貞時」によって
  滅ぼされた政変
   御家人を一掃したと思ったら、今度は子分(身内)を退治した。
   (嘘から始まった『執権・北条氏』の秘密を知る者は皆殺し!


【1324年(正中元年) 正中の変

  後醍醐天皇による『討幕計画』が事前に発覚し、首謀者が
  処分された事件。(六波羅探題、“G・J”)


【1331年(元弘元年、元徳3年) 元弘の乱

  後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動が勃発。
  六波羅探題」は機能せず(所詮、異邦人のスパイ。内乱で日本が
  弱体化したところで植民地化を狙っていたかも・・・?)。
   最終的には北条氏一族を自害に追い込み、討伐に成功!!


室町時代へ突入】

  その後、後醍醐天皇は京都へ帰還し、元弘の元号を復活させ、
  念願であった天皇親政(天皇が自ら行う政治)」である
  建武の新政を開始した。
   この後、足利尊氏」が離反し、傀儡天皇北朝)を建てて、
  「南北朝の対立」と「室町幕府の成立」へと向かっていく。

 


      ~ つづく ~