南北朝時代
1333年鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の全国統一まで約60年間の時代。
建武新政は武士階級を失望させ、1335年「足利尊氏」は京都を占拠、
持明院統(じみょういんとう)の嫡子「量仁(かずひと)親王
(後の光厳(こうごう)天皇」を擁立(京都の北朝)。
後醍醐天皇は吉野に移った(南朝)。
事実上、北朝には権威も権限もないので、南朝と足利政権との
対立であった。
※持明院統(じみょういんとう)
鎮守府(ちんじゅふ)将軍「藤原基頼(もとより)」が
邸内に持仏堂(じぶつどう)を創設し、これを
持明院(じみょういん)と名づけ、その一家を持明院家と
称したことに端を発する。
持明院は「後堀河(ごほりかわ)上皇」の崩御後は、
その皇女であった「室町院(暉子内(きしない)親王)」が
居住し、室町院没後の遺産配分によって、仙洞御所(せんどう
ごしょ 譲位した天皇の御所)としたことにより
「持明院統」と称されたのが由来とされている。
⇒ 持明院家は女系天皇と藤原氏の血統であり、これが
足利尊氏が擁立した北朝の正体!
幕府は「後醍醐天皇」が京都から吉野へ逃亡するとただちに廃位し、
皇太子「量仁親王(光厳天皇)」を即位させた。
捕虜となった後醍醐天皇は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、
隠岐島に流された。
(過去記事にもあるように、“隠岐”には“名前のない島”=戸籍がない
一族=天皇家または裏天皇とよばれる一族しか住めない“禁断の聖域”と
なっている。つまりは、後醍醐天皇は流罪というよりは、日本を地下で
操る秘密組織(裏天皇)のもとに向かった。
北朝も足利氏も、この“禁断の聖域”である隠岐に踏み入れないことを
知っていたので、あえて『流罪』という表現が当てられた)
この時期、後醍醐天皇の皇子「護良(もりよし)親王」や河内の
『楠木正成』ら反幕勢力が各地で活動していた。
1337年「新田義貞(にったよしさだ)」ら北陸勢力の壊滅、
1343年「北畠親房(きたばたけちかふさ)」指揮下の
常陸(ひたち)関・大宝(だいほう)両城の陥落で南朝は決定的に敗北。
その後は幕府内の足利直義(ただよし)と高師直(こうのもろなお)との
勢力争いを発端として、20年間にわたり足利一族諸将が内争を続けた。
「足利義満」が将軍となったのち政権が強化。1392年南朝の
「後亀山(ごかめやま)天皇(南朝最後の天皇)」が京都に帰還して
足利政権は全国統一。この間の内乱を南北朝内乱といい、内乱のなかで
山陽・山陰・北陸・畿内の伝統的豪族層が没落し、荘園制を基盤とする
貴族・社寺が衰退。守護は任国を領国化して守護大名となった。
南北朝後、「後醍醐天皇」の子孫(皇統)は、毛利家(長州藩)の保護を
受け、戦国時代などの動乱を乗り越え、のちの明治維新(政治クーデター)が
起こるまで毛利家を中心とする長州藩士が命がけで守り続けた。
戦国時代は、天下(京都)を正当な皇統である『南朝』に権威を奪還する
ための戦乱でもあった。そう、ここに全ての秘密を知る“出雲族”の末裔
「織田信長」、南朝方と裏天皇組織をつなぐ“スパイ=茶人”「千利休」、
賀茂神社の神職の家系から延暦寺の修行僧を経て明智家の養子となった
「明智光秀(後の天海)」、徳川家嫡男で母が賀茂神社の神職である
「徳川家康」(『葵の紋』は賀茂神社(葵祭り)との深い絆あり)が
登場する。
~ つづく ~