南朝も北朝も正統な皇統ではなかった?

戦国時代に入る前に、そもそも、戦国時代の発端(導火線)となる
南北朝時代とは何だったのか?
 ここで、表の歴史から隠された“知られざる秘密”を解き明かす。

元号の始まりは、大化の改新の『大化』。
中心的な役割をした「中臣鎌足」が藤原姓を賜り、
藤原鎌足」となり、藤原氏が誕生した瞬間でもあった。
 「藤原鎌足」の二男として誕生した藤原不比等(ふひと)」史記
言われる(後に日本の正史となる)古事記』『日本書紀』編纂の黒幕となり、
名実ともに、藤原氏一族が現在に至るまで日本を支配する事実上の
支配者として君臨してきた。元号の歴史は「藤原氏」の歴史ともいえる。

そして、『古事記』『日本書紀』が編纂された時代は、
女性天皇持統天皇の時代でもあった。
元来、天皇は男系で受け継がれて来たが、藤原不比等女性天皇を正当化し、
世間に認知させる目的も持って、“とんでもないこと”をやらかす。
 『古事記』『日本書紀』以前の古史(古伝ともいう)では、
日本の最高神は“天照国照彦(あまてるくにてるひこ)”という男神であり、
その妃が瀬織津姫(せおりつひめ)”、この2神の子として誕生したのが
須佐之男命(すさのおのみこと)”であった。
 不比等は、「天照国照彦」と「瀬織津姫」を合体させて、天照大神
いう女神を日本の最高神とする暴挙に出て、権力によって強引に正当化した。
そのために、古神道の神々の怒りを鎮める必要が生じ、
瀬織津姫を祭る神社や、呪詛(じゅそ)によって秘密を守るための神社
建立する必要があった(伊勢神宮もその一つ)。
 出雲大社伊勢神宮の確執の本質は、古神道の代表格でもある出雲と
藤原氏一族との長年にわたる対立でもあった。
 また、『七夕伝説』も天照国照彦と瀬織津姫の祟り(たたり)を
鎮めるために造られた(彦星と織姫)

では、持統天皇(女性)と不比等の時代になにがあったのか?
持統天皇は「天武天皇」の皇后であったが、「天武天皇」が若くして
崩御されたため(皇位継承者であった「草壁(くさかべ)皇子」は病死、
皇位継承者を引き継いだのが「草壁皇子」の子「軽(かるの)皇子」で
当時7歳)、皇后であった「持統天皇」が即位した。
 持統天皇は、15歳になった「軽(かるの)皇子=文武(もんむ)天皇」に
譲位し、自らは日本初の太上天皇上皇)になった。


そして、譲位した持統天皇は、譲位後も「文武天皇」と並んで政務を
おこなっていた。そして、この上皇となった持統天皇の寵愛を受けて
いたのが「藤原不比等であった。(『古事記』『日本書紀』を正史とし、
女性天皇を正当化した功績による“忖度”が大きかった)

晩年、持統天皇は、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらうため、
吉野行きを行っているが、この道中で、男子を生んでいる(父は不比等
⇒ 不比等以降も藤原氏が権力を握り続け、皇室にも絶大な影響力を持っていた。
そして、いつしか持統天皇不比等の血統が皇統と混じるようになって
いった(系図が複雑すぎて解読は難解)。
この藤原氏独裁をとがめたのが、皇位継承者から臣籍降下した
橘諸兄(たちばなのもろえ)」の孫で、「嵯峨(さが)天皇」の妃となる
橘嘉智子(かちこ)」の父・「橘清友(きよとも)」でった。
(表の歴史では藤原氏との政争に敗れて京都を追放されたことになっている)
 「橘清友」は京都を追放された後、橘の氏を捨て故郷の吉備国に帰還した。

また「藤原不比等」は後妻となった「橘三千代」の力添えもあり、
皇室との関係を深めていた。不比等の娘はことごとく皇后や
皇子(皇位継承者)の妃になっていた。

そう、室町時代には、南朝北朝も正統な皇統ではなく
ともに藤原氏の血統(男系)になっていた。
 事実、現在の今上天皇上皇)の直系をたどっていくと、
藤原不比等に行きつく。
明治維新という政治クーデターで、北朝南朝が入れ替わっている)


前置きが長くなったが、「織田信長」は当時の“皇統の嘘”と
藤原氏による独裁政治に終止符を打ち、吉備国に隠れた“正当な皇統”を
京都に呼び戻すことで、戦乱の世を鎮め、再び天皇中心の平和な国家に
戻すべく立ち上がった、“神職の戦国武将”であった。
 それゆえ、裏天皇組織(隠岐)や忍者組織(ヤタガラス)、主要な神社、
京都を離れていた元貴族たちが集結(協力)して、堺の鍛冶職人、
鉄製の船の設計者、一夜城でも知られる優秀な大工集団、
奇抜な戦術を繰り広げる参謀(後の豊臣秀吉)、など
屈強な武士や頭脳集団、そして技能集団が集まった。


ここから戦国時代が始まる。

 

   ~ つづく ~