織田信長の出自と生駒屋敷

織田信長の出自】

  劔神社(つるぎじんじゃ)は、福井県丹生郡(にゅうぐん)越前町
  (旧織田町)にある神社である。別名織田明神(おたみょうじん)。
   素盞鳴尊(すさのおのみこと)を主祭神とし、特に織田信長
  当社の神官の子孫であるとされ、織田家氏神とされた。
   尾張織田家は故郷の名にちなんで織田と名乗ったのが始まりで
  ある。 

  織田信長が自ら自分の事を、“第六天魔王”と自称したのも、決して
  根拠のない嘘では無い。 
   ただ、スサノオと自称しなかったのは、今回の自分の役目が、
  殺戮をも厭わない日本の大改革に成る事を、御告げにより認識して
  いた為に、敢えて魔王を名乗った模様。
   徹底的に悪役を最後まで演じ切り、最後は惨殺される事を、
  自ら誘導していたともいわれる。
  (本能寺の変は“予見”されていた?)

  第六天魔王の起源は、平安末期頃作られた『中臣祓訓解(なかとみの
  はらえくんげ)』に記されている。
   これには、大神(天照太御神)は大日(如来)と同体とされ、
  国を治める証文を魔王から請い受けたとされている。
  つまり、天照太御神(あまてらすおおみかみ)の子孫が日本を
  治める許可書を、日本国を所有する魔王から発行して貰い、保証
  されたと有る。
   また、『通海参詣記(つうかいさんけいき)』(十三世紀末頃)には、
  「イザナギイザナミの二尊がこの国を創ろうとして、
  第六天魔王から国を譲り受けたとき、仏法を嫌うと申し出た。』と
  されている。
   信長が『通海参詣記』を読んだかは不明だが、彼は比叡山を襲撃して
  実際に大殺戮をしている。

  実際、信長の戦陣(下図)をみると、六芒星の紋章が確認できる。
  この紋章は世界的には“ダビデ紋”と言われるが、出雲の社紋(亀甲紋)
  六角形を現した紋章として、日本では古くから使われている。
   出雲大社は“スサノオ”を御祭神としていた時代もあるほど、
  深い関係にある。

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  また、「信長公記」に記される『安土城の“蛇石(じゃいし)”』の
  存在も意味深である。
   『大石を撰取(えらみと)り、小石を選退(えらみの)けられ、
    爰(ここ)に津田坊、大石御山の麓迄寄せられ候といへども、
    蛇石(じゃいし)と云ふ名石(めいいし)にて勝(すぐれ)
    たる大石に候間、一切に御山へ上らず候。然る問、羽柴筑前
    滝川左近・惟住(これすみ)五郎左衛門三人として助勢(すけぜい)
    一万余の人数(にんじゅ)を以て、夜日(よひ)三日に上(のぼ)せ
    られ候。信長公御巧(たくみ)を以て靫(たやす)く御天主へ上させ
    られ、昼夜(もうや)山も谷も動くばかりに候キ。』

  実のところ、信長の出自には謎が多い。織田家の養子という説もあり、
  蛇石に見られるように、ヘビ族(イスラエル10支族の中のダン族の紋章も
  ヘビ)の子孫という可能性もある。

  ゆえに、信長の妹で、後に浅井長政正室となる「お市の方」も実の
  兄妹ではなかった(浅井家に嫁ぐ前に、すでに信長との娘・茶々を
  身ごもっていた)。
   信長が「お市の方」と密会していたのが、「生駒屋敷」だった。

 

【生駒屋敷】

  生駒家は“馬借”(現在の運送業に当たる)を家業としていたと
  いわれるが、子孫によれば、生駒家は商売をしておらず、「記録に
  残るものでは武家であり、武家のやり取り(手紙)であり、
  商売の記録は皆無」である。
   当時信長が居城としていた「清州城」からは約15kmほどの
  距離(馬を走らせれば小一時間)にあったことから、足しげく
  通っていたようである。
  “馬借”(現在の運送業に当たる)というのは表向きで、各地の情報を
  収集する“スパイ組織(忍者集団)”だった。信長が生駒家に通って
  いたのも、各地の戦国武将の動向(情報)を入手するのが主目的
  だった(実際に、 桶狭間の戦では、今川軍の奇襲につながった)。
   そして、信長はこの生駒家で「お市の方」とも密会を重ねていたが、
  やがて、「お市の方」は、浅井家の正室として嫁ぐことになる。
 
  その後、信長は生駒家の長女・「生駒吉乃(いこまきつの)」を側室に
  迎える。
   信長は正室である「濃姫との間に子をもうけることはなかったが、
  吉乃との間には3人の子をもうけた(信忠・信雄・徳姫)。
   余談であるが、フィギュアスケートで有名になった「織田信成」選手の
  直系先祖が、信長と吉乃との子・「信雄」である。

  そして、この吉乃から信長に、「この者はきっと役に立つ」と紹介され
  たのが、後の豊臣秀吉になる「藤吉郎(とうきちろう)」だった。
  藤吉郎は農家の息子とされているが、実際は生駒屋敷の忍者を取りまとめ
  ていた頭領でもあり、大工の棟梁でもあった。
   むろん、信長と「お市の方」との密会も知っていた(信長の秘密を知る
  人物でもあった。これが後の裏切り行為へとつながっていく)。

 


           ~ つづく ~