南朝も北朝も正統な皇統ではなかった?

戦国時代に入る前に、そもそも、戦国時代の発端(導火線)となる
南北朝時代とは何だったのか?
 ここで、表の歴史から隠された“知られざる秘密”を解き明かす。

元号の始まりは、大化の改新の『大化』。
中心的な役割をした「中臣鎌足」が藤原姓を賜り、
藤原鎌足」となり、藤原氏が誕生した瞬間でもあった。
 「藤原鎌足」の二男として誕生した藤原不比等(ふひと)」史記
言われる(後に日本の正史となる)古事記』『日本書紀』編纂の黒幕となり、
名実ともに、藤原氏一族が現在に至るまで日本を支配する事実上の
支配者として君臨してきた。元号の歴史は「藤原氏」の歴史ともいえる。

そして、『古事記』『日本書紀』が編纂された時代は、
女性天皇持統天皇の時代でもあった。
元来、天皇は男系で受け継がれて来たが、藤原不比等女性天皇を正当化し、
世間に認知させる目的も持って、“とんでもないこと”をやらかす。
 『古事記』『日本書紀』以前の古史(古伝ともいう)では、
日本の最高神は“天照国照彦(あまてるくにてるひこ)”という男神であり、
その妃が瀬織津姫(せおりつひめ)”、この2神の子として誕生したのが
須佐之男命(すさのおのみこと)”であった。
 不比等は、「天照国照彦」と「瀬織津姫」を合体させて、天照大神
いう女神を日本の最高神とする暴挙に出て、権力によって強引に正当化した。
そのために、古神道の神々の怒りを鎮める必要が生じ、
瀬織津姫を祭る神社や、呪詛(じゅそ)によって秘密を守るための神社
建立する必要があった(伊勢神宮もその一つ)。
 出雲大社伊勢神宮の確執の本質は、古神道の代表格でもある出雲と
藤原氏一族との長年にわたる対立でもあった。
 また、『七夕伝説』も天照国照彦と瀬織津姫の祟り(たたり)を
鎮めるために造られた(彦星と織姫)

では、持統天皇(女性)と不比等の時代になにがあったのか?
持統天皇は「天武天皇」の皇后であったが、「天武天皇」が若くして
崩御されたため(皇位継承者であった「草壁(くさかべ)皇子」は病死、
皇位継承者を引き継いだのが「草壁皇子」の子「軽(かるの)皇子」で
当時7歳)、皇后であった「持統天皇」が即位した。
 持統天皇は、15歳になった「軽(かるの)皇子=文武(もんむ)天皇」に
譲位し、自らは日本初の太上天皇上皇)になった。


そして、譲位した持統天皇は、譲位後も「文武天皇」と並んで政務を
おこなっていた。そして、この上皇となった持統天皇の寵愛を受けて
いたのが「藤原不比等であった。(『古事記』『日本書紀』を正史とし、
女性天皇を正当化した功績による“忖度”が大きかった)

晩年、持統天皇は、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらうため、
吉野行きを行っているが、この道中で、男子を生んでいる(父は不比等
⇒ 不比等以降も藤原氏が権力を握り続け、皇室にも絶大な影響力を持っていた。
そして、いつしか持統天皇不比等の血統が皇統と混じるようになって
いった(系図が複雑すぎて解読は難解)。
この藤原氏独裁をとがめたのが、皇位継承者から臣籍降下した
橘諸兄(たちばなのもろえ)」の孫で、「嵯峨(さが)天皇」の妃となる
橘嘉智子(かちこ)」の父・「橘清友(きよとも)」でった。
(表の歴史では藤原氏との政争に敗れて京都を追放されたことになっている)
 「橘清友」は京都を追放された後、橘の氏を捨て故郷の吉備国に帰還した。

また「藤原不比等」は後妻となった「橘三千代」の力添えもあり、
皇室との関係を深めていた。不比等の娘はことごとく皇后や
皇子(皇位継承者)の妃になっていた。

そう、室町時代には、南朝北朝も正統な皇統ではなく
ともに藤原氏の血統(男系)になっていた。
 事実、現在の今上天皇上皇)の直系をたどっていくと、
藤原不比等に行きつく。
明治維新という政治クーデターで、北朝南朝が入れ替わっている)


前置きが長くなったが、「織田信長」は当時の“皇統の嘘”と
藤原氏による独裁政治に終止符を打ち、吉備国に隠れた“正当な皇統”を
京都に呼び戻すことで、戦乱の世を鎮め、再び天皇中心の平和な国家に
戻すべく立ち上がった、“神職の戦国武将”であった。
 それゆえ、裏天皇組織(隠岐)や忍者組織(ヤタガラス)、主要な神社、
京都を離れていた元貴族たちが集結(協力)して、堺の鍛冶職人、
鉄製の船の設計者、一夜城でも知られる優秀な大工集団、
奇抜な戦術を繰り広げる参謀(後の豊臣秀吉)、など
屈強な武士や頭脳集団、そして技能集団が集まった。


ここから戦国時代が始まる。

 

   ~ つづく ~

 

南北朝時代

1333年鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の全国統一まで約60年間の時代。

建武新政は武士階級を失望させ、1335年「足利尊氏」は京都を占拠、
持明院統(じみょういんとう)の嫡子「量仁(かずひと)親王
(後の光厳(こうごう)天皇」を擁立(京都の北朝)。
後醍醐天皇は吉野に移った(南朝)。
 事実上、北朝には権威も権限もないので、南朝と足利政権との
対立であった。

  ※持明院統(じみょういんとう)
    鎮守府(ちんじゅふ)将軍「藤原基頼(もとより)」が
    邸内に持仏堂(じぶつどう)を創設し、これを
    持明院(じみょういん)と名づけ、その一家を持明院家
    称したことに端を発する。
     持明院は「後堀河(ごほりかわ)上皇」の崩御後は、
    その皇女であった「室町院(暉子内(きしない)親王」が
    居住し、室町院没後の遺産配分によって、仙洞御所(せんどう
    ごしょ 譲位した天皇の御所)としたことにより
    「持明院統」と称されたのが由来とされている。
     ⇒ 持明院家女系天皇藤原氏の血統であり、これが
       足利尊氏が擁立した北朝の正体!

幕府は「後醍醐天皇」が京都から吉野へ逃亡するとただちに廃位し、
皇太子「量仁親王光厳天皇)」を即位させた。
捕虜となった後醍醐天皇は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、
隠岐島に流された。
(過去記事にもあるように、隠岐”には“名前のない島”=戸籍がない
一族=天皇家または裏天皇とよばれる一族しか住めない“禁断の聖域”
なっている。つまりは、後醍醐天皇流罪というよりは、日本を地下で
操る秘密組織(裏天皇)のもとに向かった。
 北朝も足利氏も、この“禁断の聖域”である隠岐に踏み入れないことを
知っていたので、あえて『流罪』という表現が当てられた)
 この時期、後醍醐天皇の皇子「護良(もりよし)親王」や河内の
楠木正成』ら反幕勢力が各地で活動していた。

1337年「新田義貞(にったよしさだ)」ら北陸勢力の壊滅、
1343年「北畠親房(きたばたけちかふさ)」指揮下の
常陸(ひたち)関・大宝(だいほう)両城の陥落で南朝は決定的に敗北
その後は幕府内の足利直義(ただよし)と高師直(こうのもろなお)との
勢力争いを発端として、20年間にわたり足利一族諸将が内争を続けた。

足利義満」が将軍となったのち政権が強化。1392年南朝
後亀山(ごかめやま)天皇南朝最後の天皇」が京都に帰還して
足利政権は全国統一。この間の内乱を南北朝内乱といい、内乱のなかで
山陽・山陰・北陸・畿内の伝統的豪族層が没落し、荘園制を基盤とする
貴族・社寺が衰退。守護は任国を領国化して守護大名となった。


南北朝後、「後醍醐天皇」の子孫(皇統)は、毛利家(長州藩の保護を
受け、戦国時代などの動乱を乗り越え、のちの明治維新(政治クーデター)が
起こるまで毛利家を中心とする長州藩士が命がけで守り続けた。

戦国時代は、天下(京都)を正当な皇統である『南朝』に権威を奪還する
ための戦乱でもあった。そう、ここに全ての秘密を知る“出雲族”の末裔
織田信長」、南朝方と裏天皇組織をつなぐ“スパイ=茶人”「千利休」、
賀茂神社神職の家系から延暦寺の修行僧を経て明智家の養子となった
明智光秀(後の天海)」、徳川家嫡男で母が賀茂神社神職である
徳川家康」(『葵の紋』は賀茂神社葵祭り)との深い絆あり)が
登場する。

 

 

           ~ つづく ~

足利氏と金閣寺

執権・北条氏が熱望した後、足利氏(足利尊氏)が朝廷(南朝)を裏切り、
北朝という“傀儡(かいらい)天皇を建てることで、
足利氏が事実上、権威と権力を握ったのが『室町時代』だった。

この足利氏一族の野望が如実に現れたのが金閣寺だった。

とくに、足利尊氏の孫にあたる義満の時代は、南北朝が対立する時代であり、
あろうことか、南朝(真の皇統)を騙して、“3種の神器”(本物ではなく、
レプリカを渡すことで南朝も義満を欺いた)を奪い、義満自らが天皇になり
変るべく、その象徴として『金閣寺』が建立されたのだった。
 そして、義満が「太上天皇になり、息子に天皇の位につかせるべく、
息子「義嗣(よしつぐ)」を皇室の礼で元服させた。
義満は自分も含め、足利一族も皇族に滑り込ませようとしていた。

 

【3層構造(3階建て)の金閣寺

  第1層 法水院(ほうすいいん)

    第1層は、寝殿造(しんでんづくり)であり、
    法水院(ほうすいいん)と呼ばれている。
     中央に宝冠釈迦如来像(ほうかんしゃかにょらいぞう)、
    その左側に足利義満像が安置されている。

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  第2層 潮音洞(ちょうおんどう)

    第2層は、武家造り」または「書院造り」であり、
    潮音洞(ちょうおんどう)と呼ばれている。
     内部は、岩屋観音像と四天王像が安置されている。

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  第3層 究竟頂(くっきょうちょう)

    第3層は、禅宗(ぜんしゅう)様式であり、
    究竟頂(くっきょうちょう)と呼ばれている。
     禅宗様式とは、ただ座禅を組んで静かに観念を凝らす場所とした
    建築様式で、中国の宋で用いられていた様式が日本に導入されたもの。

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  天皇家を統一(南北朝統一)し、圧倒的な権力を手に入れた足利義満は、
  将軍と天皇の、日本の両権力の頂点に立つことを目指し、その象徴が、
  この金閣寺の建築様式に表現されている。

  当時、寝殿造りは朝廷が、書院造りは武家が好んで住んでいた。
  当時の義満はというと、禅宗の僧として出家していた。

  金閣寺の第1層は寝殿造り。第2層は書院造り。そして第3層は禅宗様式
  つまり義満が、朝廷と武家の上に位置することを示していた
   しかも、第2層、第3層には金箔が貼られているが、第1層には張られて
  いない。これは義満が朝廷の繁栄を望まなかったのではないかと推測されて
  いる(所詮、北朝は傀儡天皇である故、“お飾り=足利氏の奴隷”として、
  最低限の生活を維持させることで、事実上、皇室をも支配した)。
   屋根の上には黄金に輝く鳳凰が飾られているが、鳳凰は徳のある
  天子(天皇)が出現した時に姿を現すとされる想像上の鳥なので、
  その鳳凰金閣の頂点に置き、新たな天皇に相応しいのは自分(義満)で
  あると示している。


このように金閣寺に象徴されるように、足利尊氏~義満は、
正当な皇統である「南朝を京都(天下)から追放」して、
足利一族の言いなりになる“傀儡の北朝”を皇位につけることで、
権威と権力の両方を掌握して、この日本を独裁支配することになった。

次回は、戦国時代にもつながっていく、『南北朝の争い』について
深掘りしていく。

 

       ~ つづく ~

執権・北条氏の滅亡まで

北条氏が執権となってからは、内紛の連続だった。


【1205年(元久2年) 畠山重忠(はたけやましげただ)の乱】

  武蔵国の有力御家人・「畠山重忠」が、武蔵掌握を図る北条時政
  策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされた事件。


【1213年(建暦3年) 和田合戦】

  鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛(わだよしもり)」の
  反乱。打倒相手は北条氏。
   しかし、この反乱は失敗に終わり、北条氏の執権体制はより
  強固なものとななった。


【1221年(承久3年) 承久の乱六波羅探題の設置】

  後鳥羽上皇鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて兵乱を起こす。
  しかし結果は返り討ちにあい、幕府が勝利した。
   さらに、この兵乱をきっかけに、朝廷の動きを監視する職として
  六波羅探題を設置した。主な職務は「朝廷の監視活動」

   ※「探題」はもともと、裁決を行う機関だったが、
    『六波羅探題』の場合は「スパイ活動」を意味する。
     一方で、六波羅』は当て字で、帰化した異邦人が
    “カタカナ表記”を漢字にあてたもの。
    『六波羅(ろくはら)』を当て字にした異邦人一族とは・・・
    「ろくはら」・・・「ロックハラー?」
     なんと、北条氏は朝廷を監視する役職を設置したはずが、
    日本を監視するスパイを海外から呼び込んでしまうという、
    大失態を犯した。


【1247年(宝治元年) 宝治合戦

  「執権・北条氏」と「有力御家人・三浦氏」の対立から、鎌倉で
  武力衝突が起こり、北条氏と外戚(北条氏の母方の親戚)「安達氏」ら
  によって、三浦一族とその与党が滅ぼされた。
   北条氏最強(独裁政権)は続く。
   この結果を契機に、十三人の合議制は廃止され、
  「北条得宗(とくそう 鎌倉幕府の北条氏惣領の家系)」による
  専制政治が確立した。


【1272年(文永9年) 二月騒動】

  蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉と、京で起こった北条氏一門の内紛
  (源平合戦の再来とも・・・平氏本家筋の執権・北条氏と、権力から
  見放された分家・北条氏との身内の内紛)。
   この内紛の結末は、執権「時宗」に対する反抗勢力が一掃されること
  となり、「得宗家(北条氏惣領の家系)」の権力が強化された。


【1274年(文永11年) 文永の役

  1回目の元寇(蒙古襲来)。詳細は前回のブログ記事参照。


【1281年(弘安4年) 弘安の役

  2回目の元寇(蒙古襲来)。詳細は前回のブログ記事参照。


【1285年(弘安8年) 霜月騒動

  御家人一族との北条氏最後の戦い。見事に勝利し、権力を磐石な
  ものとした。
   幕府創設以来の有力御家人政治勢力は壊滅し、
  「平頼綱(よりつな 北条得宗家に仕えた武士)」率いる「得宗家」
  被官勢力の覇権が確立した。


【1293年(正応6年) 平禅門(へいぜんもん)の乱】

  鎌倉幕府を支配する北条氏得宗家の内管領として絶大な権勢を
  振るった「平頼綱」が、主君である9代執権「北条貞時」によって
  滅ぼされた政変
   御家人を一掃したと思ったら、今度は子分(身内)を退治した。
   (嘘から始まった『執権・北条氏』の秘密を知る者は皆殺し!


【1324年(正中元年) 正中の変

  後醍醐天皇による『討幕計画』が事前に発覚し、首謀者が
  処分された事件。(六波羅探題、“G・J”)


【1331年(元弘元年、元徳3年) 元弘の乱

  後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動が勃発。
  六波羅探題」は機能せず(所詮、異邦人のスパイ。内乱で日本が
  弱体化したところで植民地化を狙っていたかも・・・?)。
   最終的には北条氏一族を自害に追い込み、討伐に成功!!


室町時代へ突入】

  その後、後醍醐天皇は京都へ帰還し、元弘の元号を復活させ、
  念願であった天皇親政(天皇が自ら行う政治)」である
  建武の新政を開始した。
   この後、足利尊氏」が離反し、傀儡天皇北朝)を建てて、
  「南北朝の対立」と「室町幕府の成立」へと向かっていく。

 


      ~ つづく ~

『元寇』とは

鎌倉時代に幕を下ろすきっかけとなった、モンゴル軍による
日本侵攻作戦「元寇(蒙古襲来)」。

圧倒的な兵力の質と差がありながら、2度にわたり元寇を追い返し
たのは「神風」と言われているが、最近の研究では「神風」ではな
かったとの説が主流になっている。

1274年、モンゴル皇帝フビライは国号を『元』と改めて、
日本に朝貢を求めてきた。
しかし、鎌倉幕府はこれを拒否。
2度にわたる元寇(蒙古襲来)が起こる。


一般的には、

1回目の文永の役(1274年)は、博多湾に上陸した元軍が
「神風」で撤退、
2回目の弘安の役(1281年)は、佐賀県伊万里湾に集結した元軍が
2度目の神風で壊滅、とされている。

ところが、この常識が、近年の水中考古学や文献史学でも、覆されている。


文永の役(1回目の元寇)での元軍は、征服したばかりの朝鮮半島
高麗軍との連合軍だった。(モンゴルは遊牧民である故、
船や船団を持っていなかった。そこで、隷属となった「高麗」に
日本襲撃を命じた)
 その連合軍の兵力は、約120隻の艦船(総数約1万人の兵士)と
言われている。
 1274年10月3日に朝鮮半島南部の合浦(ハッポ)を出港した軍勢は、
対馬壱岐を攻略。山の多い対馬では住民は逃げることができたが、
隠れるところのない壱岐の島の住民は、ほとんど殺されるか捕まり、
手のひらに穴をあけて数珠つなぎで連行された。
10月20日 元軍は博多湾に上陸。日本側も警戒しており、九州の
御家人を中心に防御線をはっていた。
両軍は博多湾の海岸で激突。

武士は騎射(馬からの弓)などで戦うのが主流だったが、
離れたところの元軍は、「kusukusu naniare バッカジャナイノ」といって、
射程距離220メートルという弓矢を一斉に放ち、
さらに「てっぱう」という手榴弾のような爆弾を投げつける。

「一騎打ち」対「長距離兵器集団戦」では、話にならない。
当然、日本軍は大敗する。

武士たちは海岸から大宰府へと撤退。
大宰府をまもる「万里の長城」的な「水城」(みずき)で敵を待ち構える。

ところが・・・

元軍は、翌日にはなぜか姿を消してしまった。(通説では)
そのため、次の弘安の役で台風によって元軍が壊滅したことを後付にして、
「あれ?もしかして神風が吹いて元寇を蹴散らしたの?」
という神風説がうまれた。

ところが、同時代の記録(当時の記録)だけで読み解いたところ、
実は1日で撤退したのではなく、合戦は7日ほど続き寒冷前線
よるとみられる嵐をきっかけにして、元軍は撤退したというのが真相と判明した。
またこの「神風」は10月なので台風と考えられてきたが、
新暦に直すと11月中旬なので、おそらく通常の冬の寒冷前線だとみられる。
11月の玄界灘なんて、1週間も停泊していたら、
必ず寒冷前線がきて大荒れになりますよ~って話!


さて、元軍は日本攻撃をあきらめたわけではなかった。

今度の弘安の役(2回目の元寇)では、朝鮮軍だけでなく
新たに支配下においた中国南部の南宋(難敵になった)も動員。

前回の1万人に対し、今回は3万人に増強。
元は“最後のチャンス”を幕府側(北条氏)に与え、1275年、
また外交使節を送った。
ところが、鎌倉幕府の執権・北条時宗は、なんとこの使節
切り捨ててしまった。めちゃめちゃだぁ~!!

当然、激怒した元軍は攻めてくる。

日本も前回の元寇で、集団戦法に痛い目にあったので、
海岸線に上陸を防ぐための新たな「万里の長城」である元寇防塁を20キロに
わたってつくった。(下図参照)

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前回にたよった水城は飛鳥時代(白村江の戦)に、朝鮮(新羅)と
中国(唐)の襲来に備えたもので、はっきりいって古すぎた
この元寇防塁は、今も福岡市今津地区に保存されてる。
また、この元寇防塁は、鹿児島(大隅)と宮崎(日向)の御家人
つくったもので、高さ2メートル、延長約3キロにおよぶ。

1275年に外交官を切り捨てるという宣戦布告をした日本だったが、
しばらく元軍は来なかった。
そのころ元は、中国統一の最終段階で、前述の南宋を攻撃し、
1279年についに南宋を滅ぼした。

その2年後の1281年に2回目の日本遠征がはじまる。


今回は、兵を二手にわけ、
博多湾を目指す東路軍(高麗軍主体)
佐賀方面から回り込む江南軍(南宋軍主体)
それぞれ150隻15,000人くらいとみられている。

冬の玄界灘にこりたので、今度は5月に作戦を開始
新暦で6月ころ)

5月26日に元の東路軍は福岡湾の島・志賀島に上陸。
さらに博多湾の上陸を目指すが、防塁を整備した日本軍は
水際作戦に成功して、元軍の上陸を阻止。(前回の学習を生かした)

博多湾では、にらみ合いや小競り合いが続いた。
元寇防塁が功を奏し、元軍は攻めあぐねていた)

東路軍の司令官は「江南軍はまだか!」と援軍を待っていた。

その援軍となる南宋の投降兵たち(江南軍)が、
ようやく到着したのは、1ヶ月遅れの7月15日頃(新暦で8月)の
ことだった。佐賀県鷹島付近に船団が到着した。

博多湾上陸を諦めた東路軍も、主力を鷹島のある伊万里湾へ移動させ、
7月30日に停泊した。(新暦で9月14日 台風シーズン突入!?
この夜、暦どおりに台風が襲来。強風にあおられた元軍の艦船は
損傷し、そこに日本軍が襲いかかり、日本は勝利した。

2011年(平成23年)には、この鷹島沖の海底から元の軍船の残骸が発見され、
日本で初めて海底遺跡として国の史跡に指定された。


さて、2度にわたる元寇は、いずれも天候の悪化という要素はあったが、
はたして神風といえるような奇跡だったか、というと疑問が残る。

冬の玄界灘に長くいれば、荒れる日はある。
9月(台風シーズン)に九州にいれば台風は来る。

近年の研究で判明したことは「元寇1日目に神風到来」という奇跡は
なかったということ!!

つまり、日本の武士たちが頑張って、長い日時、
元軍と戦い続けたために、天候が悪くなったということ!

結論 偶然ではなく武士が頑張った!!(拍手)

 

元寇を乗り切った鎌倉幕府であったが、執権となった北条氏の求心力は
低下していった。そして、足利氏の登場により、北条氏は滅亡へと
向かっていくことになる。
 そういう意味では、北条氏に裏切られた頼朝・義経の怨念が、
元の皇帝・フビライに乗り移り、間接的にではあるが仇を
とったことになるのかもしれない。
 一方、モンゴル帝国もやがて勢力が衰え、アジア各国が
独立していくこととなるが、ヨーロッパもローマ帝国が衰退し、
世界的に戦乱の世になっていく。
大東亜共栄圏の絶好の機会も失われていった)

 

 

 

       ~ つづく ~

茶番だった源平合戦と北条氏の正体

  北条氏は、桓武平氏高望流の「平直方(たいらのなおかた)」を
  始祖とし、伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした
  在地豪族である。
   北条氏の祖となった「北条時政(ときまさ)」は、「平将門」の
  系図で、関東を拠点とした「平氏本家(本流)」の子孫だった。

  一方、おごれる平家の発端となった「平清盛」は、桓武天皇
  隠し子(いわゆる不倫でできちゃった子)で、事実を隠すため、
  平将門の養子となった。
   この事実を利用して、後に「平清盛」は朝廷に圧力をかけて
  権力を手に入れて行った。

  平氏本流の血族である北条氏は、京都にいる平氏(「平清盛
  たち)に嫉妬心を抱いていた。そこで、北条氏は源頼朝義経
  利用して、源平合戦を起こすことで平家討伐(事実は、不倫の
  子から始まった平氏分家の根絶)を達成した。

  目的を達成した北条氏は、源平合戦の真実を隠し通すため、
  利用価値がなくなった頼朝を暗殺した。
   さらに、頼朝の子で二代将軍となった頼家も暗殺、頼家の
  正室・「若狭局(わかさのつぼね 比企能員(ひきよしかず)の
  娘。)の『比企一族』とも対立するようになる。これが、
  比企能員の変(ひきよしかずのへん)』に繋がっていき、
  比企一族は北条氏によって滅亡した。
   この比企氏(ひきし)とは、平安時代末期から鎌倉時代前期に
  かけて武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡東松山市)を領した
  藤原秀郷(ひでさと)」の末裔にあたる。

  北条氏は、一族の秘密を守り抜くため、頼朝の妻・政子が色仕
  掛けで頼朝を翻弄し、奥州藤原氏を滅ぼした後、さらに藤原氏
  末裔で頼朝の後ろ盾にもなっていた比企一族も滅ぼしてしまった。

  だが、この北条氏の謀略に対して朝廷も黙ってはいなかった。
  これが朝廷と幕府の対立にもつながっていく。

  三代将軍となった実朝は、朝廷に政権を返し、自らが大臣になる
  ことを懇願していた。それ故、公家としての嗜み(和歌など)の
  教育も受けていた。
   この実朝の教育係をしていたのが、後の薩摩藩主となる島津氏
  の祖・島津忠久(しまづただひさ)」であった。
   この「島津忠久」は、頼朝の側室で比企能員の妹・丹後局(丹
  後内侍)の子である。
   実朝は、父の『大東亜共栄圏』も知り、大陸(南宋)に
  向かうべく造船にも着手していた。

  北条氏にとっては、また悩みの種が増えたことになる。
  島津忠久の教育によって、実朝は父・頼朝の暗殺首謀者も知るこ
  ととなる。北条氏に不信感を持った実朝は邪魔になり、ついに
  暗殺されることになった。

  島津忠久も暗殺を企てるが、朝廷の保護によりかなわなかった。

  そして、海を越えた大陸では・・・・
  チンギス・ハン(義経)の孫・フビライ・ハンが、朝廷や幕府に
  使いを送っていたこともあり、北条氏の陰謀を知ることとなる。
   これが元寇の決定的な引き金になった。


     ~ つづく ~

 

頼朝と義経が目指した『大東亜共栄圏』

源氏の祖でもある橘氏(犬養一族)は、もともと
「海を渡った縄文人(海人族=あまぞく)」だった。

 ① 長江文明を引き継いだ『呉』春秋戦国時代に敗れると、
   命からがら故郷である「日本」に帰還し、水田による稲作と
   『呉服』を伝えたものたち

 ② 北イスラエル王国が滅亡したときにシルクロードを東に進み、
   「日本」に帰還した『失われた10支族』

 ③ 徐福とともに大船団で帰還した『秦人』=『失われた10支族』に
   分かれて、故郷である「日本」に帰還した「海人族」

彼らが、大陸(レプティリアンによって造られた“強欲な王族と軍隊”の
支配)から、日本を守り抜く知恵と武力を模索してきたところに、ついに
平安時代末期に源氏の出現により、アジア最強の武士(騎馬隊)
誕生した。
 そこで、頼朝は、先祖から受け継いできた“造船技術”と航海術を
軍備に利用するべく、源平合戦の最中から準備を進めていた。
 義経騎馬隊(地上部隊)と頼朝の海軍が手を組めば、史上最強の
軍隊が完成する算段だった。
義経の騎馬隊には、奥州藤原氏の協力が必要だった)

頼朝は熱海~相模湾一帯に軍港を整備していた。
 そして、戦艦50隻(海兵隊3,000人)以上をすでに配備していた。
 ※熱海の海底遺跡が、鎌倉時代の人工物(軍港)を物語る。
  ⇒ 『源頼朝の本当の正体!!熱海海底遺跡に秘密の痕跡が!?』

表向きは鎌倉幕府の守備であったが、その背後には大陸へ進出し、
日本主導の統一国家を大陸に樹立することにあった。
八紘一宇の理念による、大東亜共栄圏

そこで、源平合戦で源氏が勝利したのち、義経を討伐すると
見せかけて(大芝居)、平泉の奥州藤原氏に匿ってもらうふりをしながら、
身代り(義経の首は別人)を建て、義経本人は北海道に渡り、
頼朝が準備した船(船団)で騎馬とともに海を渡った(モンゴルを
目指した)。


その後、頼朝は義経が恩義を感じていた「藤原秀衡(ひでひら)」が
死去し、息子の藤原泰衡(やすひら)が後を継いだタイミングで、
朝廷に許可をもらい“皇軍”として、奥州藤原氏を討伐した。

奥州藤原氏北宋(当時の中国王朝)と貿易していた都合上、
頼朝と義経の計画が密告される恐れがあった。
この大東亜共栄圏は、朝廷(歴代天皇)の悲願でもあった。
ただ、義経の心中は穏やかではなかった。
これが後の“元寇”につながっていく。

モンゴルに辿りついた義経は、モンゴルに帰化し、
『チンギス・ハン』と呼ばれるようになる。
 だが、モンゴル帝国を目指す最中に兄・頼朝の暗殺を知る。

 

義経と『チンギス・ハン』、そしてフビライの関係】

  「チンギス」は「荒れ狂うを意味し、「ハン」には「王」という
  意味がある。
   だが、モンゴル人は本来、遊牧民族で船はおろか、海を渡ることも
  漁業を営むこともない。すなわち、「チンギス」は元来の
  モンゴル民族ではないことも意味している。
   「チンギス・ハン」は「荒れ狂う海を支配する王」を意味し、
  これは海を渡ってきた『支配者』、そう義経につながる。

  この「チンギス・ハン」という名前は、本名ではなく、
  彼がモンゴル帝国の皇帝に即位したときに、シャーマンによって
  付けられた称号であり、王としての名前であった。
  (本名は「テムジン」

  モンゴル帝国は1206年に「チンギス・ハン」が建国して以来、
  1634年に皇帝即位が終わるまで約430年にわたって栄えた国家。
   最盛期にはヨーロッパの一部からトルコ、アフガニスタン
  中国、朝鮮半島までを征服し、地上の四分の一を領土とした
  人口総数1億を超える大帝国となった。(ローマ帝国にも脅威を
  与えた)
   このモンゴル帝国の出現により、西洋人は日本の「武士」にも
  警戒心を持つようになる。(大陸では、モンゴルの騎馬隊=
  日本の武士と捉え、世界最強の軍隊とみられていた)


  ※「チンギス・ハン」と義経の共通点

   ① 家紋の一致(ともに源氏紋=笹竜胆を使用)

   ② 「クロー」という愛称
     「チンギス・ハン」には義経の別名「九朗」と同じ愛称があった。

   ③ 両者の生きた年代や体格が酷似。
      とくに、「チンギス・ハン」については、出生や前半生の記録が
     ない(謎だらけの人物とされている)。

  さらに、「チンギス・ハン」の子孫は、
  「アルタンウルク(黄金の一族)」と呼ばれ、
  男系即位として皇帝が引き継がれていった。

  中でも特に有名なのが、「チンギス・ハン」の孫に当たる
  「フビライ・ハン(クビライ・カン)」。
   彼はモンゴル帝国の第五代皇帝であり、中国の大国「元王朝」の
  初代皇帝になった人物として有名。

 

かくして、本来は、頼朝(海軍)と義経(陸軍)の兄弟が
協力しながら大陸を支配し、大東亜共栄圏を目指す計画が、
頼朝の暗殺により、夢半ばに終わり、海からの援軍を失った
義経の陸軍(騎馬隊)帝国=モンゴル帝国」は、やがて分裂していき、
中世になるとヨーロッパによる植民地化が進んでいった。

そんな状況で、日本では源氏に変わり「北条氏」が執権となって
幕府政治を受け継いでいた。

元王朝の皇帝フビライは、大陸の支配を維持するには、
頼朝が残した海軍が必要と考え、北条氏に密使を送っていた時、
高句麗から「日本攻撃」の依頼を受け、日本海軍と武士を
試す“賭け”に出た。これが元寇の真相である。

 


        ~ つづく ~