『元寇』とは

鎌倉時代に幕を下ろすきっかけとなった、モンゴル軍による
日本侵攻作戦「元寇(蒙古襲来)」。

圧倒的な兵力の質と差がありながら、2度にわたり元寇を追い返し
たのは「神風」と言われているが、最近の研究では「神風」ではな
かったとの説が主流になっている。

1274年、モンゴル皇帝フビライは国号を『元』と改めて、
日本に朝貢を求めてきた。
しかし、鎌倉幕府はこれを拒否。
2度にわたる元寇(蒙古襲来)が起こる。


一般的には、

1回目の文永の役(1274年)は、博多湾に上陸した元軍が
「神風」で撤退、
2回目の弘安の役(1281年)は、佐賀県伊万里湾に集結した元軍が
2度目の神風で壊滅、とされている。

ところが、この常識が、近年の水中考古学や文献史学でも、覆されている。


文永の役(1回目の元寇)での元軍は、征服したばかりの朝鮮半島
高麗軍との連合軍だった。(モンゴルは遊牧民である故、
船や船団を持っていなかった。そこで、隷属となった「高麗」に
日本襲撃を命じた)
 その連合軍の兵力は、約120隻の艦船(総数約1万人の兵士)と
言われている。
 1274年10月3日に朝鮮半島南部の合浦(ハッポ)を出港した軍勢は、
対馬壱岐を攻略。山の多い対馬では住民は逃げることができたが、
隠れるところのない壱岐の島の住民は、ほとんど殺されるか捕まり、
手のひらに穴をあけて数珠つなぎで連行された。
10月20日 元軍は博多湾に上陸。日本側も警戒しており、九州の
御家人を中心に防御線をはっていた。
両軍は博多湾の海岸で激突。

武士は騎射(馬からの弓)などで戦うのが主流だったが、
離れたところの元軍は、「kusukusu naniare バッカジャナイノ」といって、
射程距離220メートルという弓矢を一斉に放ち、
さらに「てっぱう」という手榴弾のような爆弾を投げつける。

「一騎打ち」対「長距離兵器集団戦」では、話にならない。
当然、日本軍は大敗する。

武士たちは海岸から大宰府へと撤退。
大宰府をまもる「万里の長城」的な「水城」(みずき)で敵を待ち構える。

ところが・・・

元軍は、翌日にはなぜか姿を消してしまった。(通説では)
そのため、次の弘安の役で台風によって元軍が壊滅したことを後付にして、
「あれ?もしかして神風が吹いて元寇を蹴散らしたの?」
という神風説がうまれた。

ところが、同時代の記録(当時の記録)だけで読み解いたところ、
実は1日で撤退したのではなく、合戦は7日ほど続き寒冷前線
よるとみられる嵐をきっかけにして、元軍は撤退したというのが真相と判明した。
またこの「神風」は10月なので台風と考えられてきたが、
新暦に直すと11月中旬なので、おそらく通常の冬の寒冷前線だとみられる。
11月の玄界灘なんて、1週間も停泊していたら、
必ず寒冷前線がきて大荒れになりますよ~って話!


さて、元軍は日本攻撃をあきらめたわけではなかった。

今度の弘安の役(2回目の元寇)では、朝鮮軍だけでなく
新たに支配下においた中国南部の南宋(難敵になった)も動員。

前回の1万人に対し、今回は3万人に増強。
元は“最後のチャンス”を幕府側(北条氏)に与え、1275年、
また外交使節を送った。
ところが、鎌倉幕府の執権・北条時宗は、なんとこの使節
切り捨ててしまった。めちゃめちゃだぁ~!!

当然、激怒した元軍は攻めてくる。

日本も前回の元寇で、集団戦法に痛い目にあったので、
海岸線に上陸を防ぐための新たな「万里の長城」である元寇防塁を20キロに
わたってつくった。(下図参照)

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前回にたよった水城は飛鳥時代(白村江の戦)に、朝鮮(新羅)と
中国(唐)の襲来に備えたもので、はっきりいって古すぎた
この元寇防塁は、今も福岡市今津地区に保存されてる。
また、この元寇防塁は、鹿児島(大隅)と宮崎(日向)の御家人
つくったもので、高さ2メートル、延長約3キロにおよぶ。

1275年に外交官を切り捨てるという宣戦布告をした日本だったが、
しばらく元軍は来なかった。
そのころ元は、中国統一の最終段階で、前述の南宋を攻撃し、
1279年についに南宋を滅ぼした。

その2年後の1281年に2回目の日本遠征がはじまる。


今回は、兵を二手にわけ、
博多湾を目指す東路軍(高麗軍主体)
佐賀方面から回り込む江南軍(南宋軍主体)
それぞれ150隻15,000人くらいとみられている。

冬の玄界灘にこりたので、今度は5月に作戦を開始
新暦で6月ころ)

5月26日に元の東路軍は福岡湾の島・志賀島に上陸。
さらに博多湾の上陸を目指すが、防塁を整備した日本軍は
水際作戦に成功して、元軍の上陸を阻止。(前回の学習を生かした)

博多湾では、にらみ合いや小競り合いが続いた。
元寇防塁が功を奏し、元軍は攻めあぐねていた)

東路軍の司令官は「江南軍はまだか!」と援軍を待っていた。

その援軍となる南宋の投降兵たち(江南軍)が、
ようやく到着したのは、1ヶ月遅れの7月15日頃(新暦で8月)の
ことだった。佐賀県鷹島付近に船団が到着した。

博多湾上陸を諦めた東路軍も、主力を鷹島のある伊万里湾へ移動させ、
7月30日に停泊した。(新暦で9月14日 台風シーズン突入!?
この夜、暦どおりに台風が襲来。強風にあおられた元軍の艦船は
損傷し、そこに日本軍が襲いかかり、日本は勝利した。

2011年(平成23年)には、この鷹島沖の海底から元の軍船の残骸が発見され、
日本で初めて海底遺跡として国の史跡に指定された。


さて、2度にわたる元寇は、いずれも天候の悪化という要素はあったが、
はたして神風といえるような奇跡だったか、というと疑問が残る。

冬の玄界灘に長くいれば、荒れる日はある。
9月(台風シーズン)に九州にいれば台風は来る。

近年の研究で判明したことは「元寇1日目に神風到来」という奇跡は
なかったということ!!

つまり、日本の武士たちが頑張って、長い日時、
元軍と戦い続けたために、天候が悪くなったということ!

結論 偶然ではなく武士が頑張った!!(拍手)

 

元寇を乗り切った鎌倉幕府であったが、執権となった北条氏の求心力は
低下していった。そして、足利氏の登場により、北条氏は滅亡へと
向かっていくことになる。
 そういう意味では、北条氏に裏切られた頼朝・義経の怨念が、
元の皇帝・フビライに乗り移り、間接的にではあるが仇を
とったことになるのかもしれない。
 一方、モンゴル帝国もやがて勢力が衰え、アジア各国が
独立していくこととなるが、ヨーロッパもローマ帝国が衰退し、
世界的に戦乱の世になっていく。
大東亜共栄圏の絶好の機会も失われていった)

 

 

 

       ~ つづく ~