キリスト教伝来に隠された“日本とアジア植民地化計画”

戦国時代に日本に伝たいしたものとして有名なのが、
『鉄砲(タネガシマ)』と『キリスト教』(フランシスコ・ザビエル

時代はローマ帝国が滅亡し、ヨーロッパではスペイン、ポルトガル
イギリス、フランス、オーストリアなど、西洋の列強が競うように、
アフリカ、アジア、中南米を植民地化していった時代の始まりでもあった。
 ローマ帝国滅亡により、表の政府(支配者・権力者)は
いずれ潰される運命にあることを学んだ支配階級(後のハプスブルク家
ロスチャイルド家など)は、地下組織(地下政府)の地盤固めをしながら、
表の政府(王室、貴族たち)を“情報”と“通貨(金貨)”で操る方向に
転換していった時代でもある。

日本では、織田信長織田家は出雲系の神職の家系、信長は織田家
養子で、血筋では『失われた10支族』のダン族(ヘビの紋章)の
末裔であると同時に、平氏(分家)との混血)の登場により、
キリスト教の布教が難しいと判断した宣教師たちは、信長と接触しながら、
布教という名のスパイ活動を行っていった。
ロスチャイルド家も、信長と同じく、ダン族の末裔であったがゆえに、
宣教師たちを通して、お互いに、当時のヨーロッパと日本の情報を交換し
合うようになっていった)

 

フランシスコ・ザビエル

  スペインのナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭で宣教師
  イエズス会(表向きはローマ法王を頂点とする宗教組織、秘密結
  社イルミナティ(光の子)の隠れ蓑でもある)の創設メンバーの
  1人。
   ポルトガルジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、
  その後1549年に日本に初めてキリスト教を伝えた。

  当時の日本人の印象について、「この国の人びとは、今までに
  発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びと
  は、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみ
  やすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い
  人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」と高評価を
  与えている。
   と同時に、本国のポルトガルに送った書簡に、布教活動(キリス
  ト教による洗脳活動)が進まないことに対する苦悩もつづられて
  いた。
  「この国は、キリスト教に感化された形跡がある。人びとはみな
  質素であるが、高潔であり、まるで、キリストそのものである。
  さらに文化や思想、風習に至るまで、まるでキリストの教えその
  ものであり、私が教えることはもはや何もない。
   それもそのはずである。とくに、この日本ではつい最近まで、
  全国民レベルで、大晦日から正月にかけての風習は、旧約聖書
  の出エジプト記に書かれている“過越しの儀”そのものだったく
  らいであるから。『失われた10支族』=『海を渡った縄文人(海
  人族)の子孫』が聖書として編纂(支配者の都合よく改ざん)さ
  れる前の“原始キリスト教”が古来からの神道や仏教と融合した
  “独自の精神文化”として開花したのが、この不思議の国、日本
  なのだから。

  困り果てたザビエルのもとに、ポリトガルやスペインから応援の
  宣教師が送り込まれた。そして、彼らは布教活動の矛先を変え、
  戦国大名(武将)たちに近づき、西洋の技術(当時の日本にはな
  かったガラス工芸品やお菓子、鉄砲など)を持ちこみ、武将たち
  の興味を引きながら、武将たちから布教活動のお墨付きをもらう
  ことで、布教活動を再開していった(この経緯ゆえに、キリスト
  教に洗脳されたキリシタン大名と言われるものたちも現れるよ
  うになった)
   信長も宣教師たちによって持ち込まれた、工芸品、お菓子、さ
  らには鉄砲にも興味を示したが、キリスト教“嘘”を見抜いて
  いた(植民地化の道具であったことも)ので、質問攻めにして宣
  教師たちを困らせたという逸話もあるくらいである。

  そして、この信長のキリスト教に対する疑念が後の「豊臣秀吉
  や「徳川家康」にも影響していくこととなる。

 

【鉄砲伝来】

  キリスト教伝来より少し早い1543年に、「種子島」に漂着した
  一隻の船によって、日本に初めて鉄砲が伝来した。

  日本国内での実戦における最初の使用は、薩摩国の島津氏家臣
  「伊集院忠朗(いじゅういんただあき)」による大隅国(おおす
  みのくに 現在の鹿児島県の大隅半島屋久島、種子島奄美
  島などを含む西海道の一国。)の加治木城(かじきじょう)攻め
  であるとされている。

  鉄砲伝来の背景には、戦国時代に入った日本に鉄砲という武器を
  売りつけると同時に、内戦により日本が弱りは果てたところを
  植民地化しようという魂胆もあったが、これを救ったのも「織田
  信長」だった。戦乱の時代が長引いていたら、日本は植民地化さ
  れていたかもしれない。

  後に信長も鉄砲に興味を示し、宣教師たちに鉄砲を持ってくる
  ように命じている。
   そして、戦術として役立つと“先見の明”を得た信長は、堺に
  集めた技能集団(鍛冶職人たち)に鉄砲を渡して、これを分解さ
  せ、その構造や部品の細部まで注意深く観察するように命じた後、
  命中率や飛距離の改善と量産を命じている。
   この信長の行動と堺の鍛冶職人たちの技術に、宣教師たちも
  腰を抜かしたというエピソードは有名である。この信長の発想と
  改良を加えた鉄砲の量産具術が、それまでの一騎打ち中心の戦い
  方から、鉄砲による集団戦法へと戦術も大きく変わるきっかけに
  もなった。

 

          ~ つづく ~