大化の改新 ①


大化の改新(たいかのかいしん)」は、
皇極天皇(こうぎょくてんのう)」4年(645年)6月14日の
乙巳の変(いっしのへん)」に始まる一連の国政改革。
大宝元年(701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含む。
 改革そのものは、天皇ではなく、
「皇極太上(だいじょう=譲位した天皇天皇」と、
その親友とされる中臣鎌足(内臣)の主導のもと、
年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進された。

この改革によって豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと
移り変わったとされている。
 この改革により、「日本」という国号と「天皇という称号
使用が始まったとされる。また「大化」は日本最初の元号である。


  ※皇極天皇(こうぎょくてんのう)」
     重祚(ちょうそ、一度退位した君主が再び即位すること)
     して「斉明天皇(さいめいてんのう)」。
     日本の第35代・第37代天皇

  ※「乙巳の変(いっしのへん)
     中大兄皇子中臣鎌足らが、宮中で蘇我入鹿を暗殺して
     蘇我氏蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代
     政変(クーデター)。
      当時天皇を次々と擁立したり廃したりするほど、
     権勢を誇っていた「蘇我氏」を「皇極天皇」の皇居において
     「蘇我入鹿(そがのいるか)」を暗殺して滅亡させた。
      その後、中大兄皇子は体制を刷新して、『大化の改新』と
     呼ばれる改革を断行した。
      このクーデターである乙巳の変」に始まる一連の
     政治改革が「大化の改新であり、「乙巳の変」は
     「大化の改新」の第一段階でしかない。

  ※中臣鎌足
     後の「藤原鎌足(ふじわらのかまたり)」。
     日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。
     『大化の改新』の中心人物であり、改新後も
     「中大兄皇子天智天皇)」の腹心として活躍し、
     藤原氏繁栄の礎を築いた。

  ※「中大兄」
     後の天智天皇(てんぢてんのう)
     「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承
     資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味
     する語。
      『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での
     記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が
     天智天皇元年に相当する。

  ※「大海人」
     後の天武天皇(てんむてんのう)
     中大兄皇子にとっては両親を同じくする弟にあたるとされる。
     皇后の「鸕野讃良皇女(うののさららのおうじょ)」は後に
     持統天皇となった。

  ※蘇我入鹿
     「乙巳の変」で自害した「蘇我蝦夷(そがのえみし)」の子。
     大臣として大和朝廷の有力者であったが、
     乙巳の変」において討たれ、その後蘇我氏が凋落する
     きっかけとなった。
      自分の子女達を皇子と呼ばせたり、皇室行事を独断で
     代行したこと(傍若無人な振る舞い)で、皇位継承
     ライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らに
     よる乙巳の変」を招いた

 

大化の改新の第一段階】

  「蘇我入鹿」を暗殺して滅亡させた「乙巳の変(いっしのへん)」に
  より始まった。


大化の改新の第二段階】

  そして同年(大化元年)内に、初となる元号の使用
  「男女の法」の制定、「鍾匱の制」の開始、「仏法興隆の詔」の発布、
  十師の任命、および内臣・左大臣・右大臣の新設、
  私地私民の売買の禁止、飛鳥から難波長柄豊碕宮への遷都の決定など
  様々な改革が進められた。

  ※「男女の法」
     別名は良賤法(りょうせんほう)
     古代日本において良民と賤(賤民身分)との婚姻や生まれた子の
     帰属、戸籍上の扱いなどを定めた法制のこと。

  ※「鍾匱の制」(しょうきのせい)
     朝廷が投書によって人々の訴えを聞こうとした制度。

  ※「仏法興隆の詔」
     『日本書紀』によれば、「聖徳太子」二十一歳、
     摂政に就任した翌年、「推古(すいこ)」二年(五九四)の
     二月、天皇が皇太子及び大臣に「三宝興隆の詔」を下したと
     あるが、これは聖徳太子の進言によるもので、三宝
     すなわち「仏法僧の興隆」を推古天皇即位の翌年に早くも
     命じたものである。

  ※「十師の任命」
     僧侶を教導統制する10人の高僧。大化元年(六四五)に
     「唐の十大徳の制」にならって設置した。

  ※「国博士」
     大化の改新の際に「僧旻(そうびん 中国の僧)・高向
     玄理(たかむこのくろまろ)」が任ぜられた臨時職と
     思われる官名。官制整備の中枢となった。

  ※「内臣」
     内臣(うちつおみ/ないしん)は、飛鳥時代から平安時代
     初めにかけて置かれた役職で、律令政治下では令外官
     あたった。 歴史上4名が任命されているが、いずれも
     藤原氏出身である。 天皇の最高顧問天皇を擁護して
     政務の機要を掌握する大臣に匹敵する官職であったが、
     常設の官職ではなく、その職掌はその時々に応じて全く
     違うものであった。

  ※左大臣・右大臣」
     左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の
     一つ。
      右大臣(うだいじん)は、律令制で、太政大臣左大臣
     次に位し、政務を統轄した。
      太政大臣左大臣、右大臣を総称して「三公」という。
       ⇒ 後の『源平藤橘(日本史上、一族が繁栄した源氏・
         平氏藤原氏橘氏の四氏の称)へとつながっていく。
          ※謡曲鞍馬天狗(1480頃)
           「そもそも武略の誉の道、源平藤橘、四家に
            もとりわき」

  ※「難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)への
   遷都」
     摂津国(現在の大阪府北部~兵庫県南東部)難波にあった
     飛鳥時代の宮。「乙巳の変(645年)」の後、中大兄皇子
     によって企画され、652年に完成し、孝徳天皇が遷都した。

 

大化の改新の第三段階】は次回に・・・

 

 

        ~ つづく ~

 

 

『白村江の戦』

【背景】


① 朝鮮半島と中国大陸の情勢

  6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗百済新羅の三国
  鼎立(ていりつ)していたが、新羅は二国に圧迫される存在で
  あった。

  倭国は、半島南部に領有する任那(みまな)を通じて影響力を
  持っていたことが『日本書紀』の記録から知られている。
   『宋書』では「弁辰(べんしん、弁韓ともいう)」が消えて
  438年条に「任那」が見られ、451年条には「任那加羅(から)」
  と2国が併記されていることから、倭国が「任那加羅」と関係が
  深いことを示している。
   「任那加羅」は、562年以前に新羅に滅ぼされた。
   (※加羅(から)」は「からす」に通じる暗号神武天皇の祖で
    ある日向族も「加羅(から)」から「やたがらす」に導かれて
    日本に渡ったとの伝承もあり。)

  475年には百済高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。
  当時の百済倭国と関係が深く倭国朝廷から派遣された重臣
  駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて、度々倭国から
  援軍を送られている。

  一方、581年に建国された「隋(ずい)」は、国内の反乱で618年には
  「煬帝」が殺害されて滅んだ。
   そして新たに建国されたは、628年に国内を統一した。
  唐は二代「太宗・高宗」の時に高句麗へ3度(644年、661年、667年)に
  渡って侵攻を重ね(唐の高句麗出兵)征服することになる。

  新羅は、627年に百済から攻められた際に、唐に援助を求めたが、
  この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし、高句麗
  百済が、唐と敵対したことで、新羅冊封国として支援する
  情勢となった。
  (大国「唐」に喧嘩を売った「百済」「高句麗」は無謀のように
   思える。一方、「唐」に援助を求めた「新羅」は納得するものが・・・
   これは筆者の感想であるが・・・)

  百済は、654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、
  百済義慈王百済31代、最後の王)」は飢饉対策をとらず、
  655年2月に皇太子の「扶余隆」のために宮殿を修理するなど
  退廃していた。(日本書紀にも記録あり)
   このような百済の情勢について、はすでに643年9月には
  防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた。
   659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、倭国が送った遣唐使
  洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した。

 

② 倭国の情勢

  この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化の改新最中倭国内部でも
  警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、
  唐が倭国から離れた高句麗ではなく、伝統的な友好国である百済
  海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国外交政策
  ともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で
  二者択一を迫られることになる。

 


白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)】

  白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に
  朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、
  倭国(日本)・百済遺民の連合軍」と、「唐・新羅連合軍」との戦争の
  ことである。
   戦況は明白だった。
   「唐・新羅連合軍」は、統率のとれた軍隊で、しかも「唐」は一国だけでも、
  当時の東アジアでは最大の大国だった。その大国「唐」に対し、
  倭国は地方の豪族たちが「力任せ(精神論)」で戦いに挑んだ
  (「第二次世界大戦」で大国アメリカに、武士道精神で戦いに
   挑んだようなもの=歴史繰り返された)
 
  戦いの結果は、倭国百済遺民の連合軍」の大敗となった。
  白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および
  亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、
  やっとのことで帰国した。


  ※白村江の戦いでの敗北は、モンゴル帝国との元寇と、アメリカ合衆国
   などの連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAP)による外国占領を
   招いた第二次世界大戦」と並び、日本列島が海外勢力の占領下に
   入る危険性が非常に高まった戦争であった。
    この敗戦により、倭国は日本列島の領土は奪われなかったものの、
   朝鮮半島の領地・権益を失い、外交政策・国防体制・政治体制など
   統治システムの基礎部分を根本的に変革する必要に迫られた。
    唐との友好関係樹立も模索されるとともに、急速に国家体制が
   整備・改革され、「天智天皇」の時代には近江令法令群、
   「天武天皇」の代には、最初の律令法とされる「飛鳥浄御原令」の
   制定が命じられるなど、律令国家の建設が急いで進み、
   倭国「日本」へ国号を変えた
    「白村江の敗戦」は倭国内部の危機感を醸成し、日本という
   新しい国家の体制の建設をもたらしたと考えられている。


  ※ここで、昭和天皇の逸話』を紹介する。
   1945年(昭和20年)8月に、日本が「ポツダム宣言」を受諾し
   (日本の降伏による第二次世界大戦終結)、白村江の戦いから
   1282年後に対外戦争での敗北を再び経験した。
    そして、戦勝国であるアメリカの様々な制度を導入したが、
   終戦直後の翌1946年(昭和21年)8月に、当時の「昭和天皇」は、
  「朝鮮半島に於ける敗戦の後、国内体制整備の為、天智天皇
   大化の改新を断行され、その際、思い切った唐制の採用があった。
   これを範として今後大いに努力してもらいたし。」と語り、
  再び敗戦国の国民となった日本人を励ますようにした。

 

次回は、【白村江の戦い】の大敗を教訓に、『大化の改新』から国家として
日本が変貌を遂げる『歴史的ドラマ』へと迫っていく・・・

 


           ~ つづく ~

神武天皇と徐福(渡来人)

神武天皇の別名】

 ・「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)

 ・「神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)」

 ・「神日本磐余彦天皇神武天皇)」の諱(いみな)は、
  「彦火火出見(ひこほほでみ)」。

  ※神武天皇の別名「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・ノ・ミコト」 は、
   サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」の意味で、
   エフライム族の北朝イスラエル王国再興であるとも言われている。

 

神武天皇の誕生】

 「彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)」の
 第四子。母は「玉依姫(たまよりびめ)」。
 「庚午(かのえうま)年1月1日(庚辰(かのえたつ)の日)」に、
 日向国(ひゅうがのくに)で誕生。15歳で立太子(りったいし)。
 「吾平津媛(あひらつひめ)」を妃とし、「手研耳命(たぎしみみのみこ)」を
 得た。

 

神武天皇の東征と即位】

 「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」は日向国(ひゅうがのくに、
 現在の宮崎県)にあった。

   ~ 以下 中略 ~

 辛酉年、「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」は、
 橿原宮(かしはらのみや)」ではじめて天皇位につき(神武天皇
 「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称された。
 伝承上、これが朝廷および皇室の起源で、日本の建国とされる。

  ※始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」
    「神武(じんむ)天皇」および「崇神(すじん)天皇」の敬称。
    初めて建設された国、あるいは革新された国を統治してゆく天皇
    さしていう。『日本書紀』の「神武紀」には、
    「始馭天下之天皇」と記し、「崇神紀」には、
    「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と記しており、
    それぞれ神武天皇」、「崇神天皇をさしている。

    『日本書紀』に、
    神武天皇は「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」、
    崇神天皇は「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と記され、
    文字は違うが読みは通じ、ともに「初めて国を治めた天皇を意味する。
     建国の祖という神武の統治は大和(やまと)の範囲にとどまり、
    崇神は大和の四周を平定し、内治の充実に尽くしたと伝えられる。
    そこで崇神を実質的な建国者とみる立場から、本来、
    崇神の敬称であったこの称が、のちに、大和政権の起源を古くするために
    造作(ぞうさく)された神武にも及ぼされて、同じ称呼になったのでは
    ないかとする説もある。
   
     ※籠(この)神社の海部宮司によれば、「多次元同時存在の法則」により、
      「神武」=「崇神」(同一人物)という暗号が『記紀』には隠されている
      とのこと。

     ※建国記念日
      「2月11日」は、『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)で、
      初代天皇とされる神武天皇(じんむてんのう)の即位日。
      「旧暦の紀元前660年1月1日」と日本書紀に記載があり、
      その即位月日を新暦に換算した日付となる。
 


玉依姫(たまよりひめ)】

  玉依姫(たまよりひめ)は、豊玉姫(とよたまひめ)の妹。
  そして、玉依姫(たまよりひめ)は、自分の子ではない
  「豊玉姫(とよたまひめ)」の子を、姉の代わりに養育し、
  自分が養育した姉の子、「うがやふきあへず」が男子として成長し、
  玉依姫(たまよりひめ)を妻に選んだ。
   そして、玉依姫(たまよりひめ)と「うがやふきあへず」の間に生まれた子が、
  初代天皇である「神武天皇となった。

   ※豊玉姫(とよたまひめ)、豊姫(とよひめ)、卑弥呼(ひみこ)には
    隠された暗号があると、筆者は考える。(現在調査中)

  「たまよりびめ(玉依毘売、古事記)」または
  「たまよりひめ(玉依姫日本書紀)」は、日本神話に登場する女神。
  神武天皇(初代天皇)の母として知られる。
   名義は「神霊が依り憑く巫女」と考えられる。
  「大物主神(おおものぬしのかみ)」の妻である
  「活玉依毘売(いくたまよりひめ)」や、
  『山城国風土記(やましろこくふうどき)』逸文に見える
  「玉依日売(たまよりびめ)」と同じく、この名前を持つ者は
  神と通婚する巫女的神性を持つとされる。

 


鵜葺草葺不合命、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)】

  別名、「彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこ             と)」。
  地神五代の五代目、日向三代の三代目。
  伯母の「玉依姫(たまよりびめ)」との間に彦五瀬命稲飯命三毛入野命
  彦火火出見尊神武天皇)を得た。
  『日本書紀』によれば、「鸕鶿草葺不合尊」が誕生した産屋は
  「全て鸕鶿(う)の羽を草(かや)としてふいたが、屋根の頂上部分を、
  いまだふき合わせないうちに生まれ、草(かや)につつまれ波瀲(なぎさ)に
  すてられた。」これにより、母親の「豊玉姫(とよたまひめ)」が
  「彦波瀲武鸕鶿草葺不合(ひこなぎさたけうがやふきあえず)」と名付けた。
   そして、『富士宮下文書』などの古文書によると、「うがやふきあえずのみこ           と」の、「うがやふきあえず」は「ウガヤフキアエズ王朝七二代」であり、
     その王統を「ウガヤフジアワス」と呼んでいる。

   ※富士宮下文書』
      秦の始皇帝の時代に、東方に不老長寿の霊薬を求めて出航したとされる徐                        福は、富士高天原に着いて、そこで口承や神代記録を編集して漢字に                              書き 直し、『富士宮下文書』の原型を書いたとされる。
      この記録によれば・・・

     ◆第7代・「孝霊(こうれい)天皇」の時代に、徐福は富士山に渡来した。
      (秦の始皇帝と同時代人なので紀元前3世紀のこと)

     ◆武内宿禰(たけうちのすくね)が、徐福の来朝を聞いて喜び、
      富士山本宮七廟惣名・阿祖山大神宮に挨拶にやってきて、
      のちに熱心な「徐福学」の信奉者となった。
      (この記述から、徐福と武内宿禰はおそらく同時代人、かつ同胞で
      あったことが分かる)

     ◆徐福は神国日本の太古の歴史を書き残す事業に着手して、
      神々の子孫たちに師事し、その口碑、口談、伝言、および各家に
      伝わる実記録や系図を集大成して『十二史談』を作った。

     ◆紀元前3世紀に漂着した徐福の一行は、駿河の国で「富士王朝」と
      呼ばれた小国を建国するが、その痕跡は富士山の噴火によりすべて                                 失われた。
      (同じ頃、関西には大和王朝、
       九州には日向族によるウガヤフキアエズ王朝があった)

      ※ここでいう「大和王朝」は「邪馬台国卑弥呼の時代)」。
       また、「富士王朝」の調査を進めていた研究チームは、
       樹海で有名な青木が原(溶岩層のさらに下)にあるのでは・・・と
       いうことで、発掘調査の準備を進めていた段階で、富士山が世界遺産
       登録されたため、調査がとん挫した経緯もある(タイミングが                                         良すぎ?)

     ◆その後、「富士王朝」は500年近く繁栄して、「大和王朝」や                                          「九州王朝」と激しい対立を繰り返し、ついに紀元後2世紀頃には                                  政権を奪うことに成功した。
      これがのちに倭国大乱』と呼ばれる。
       その結果、即位したのが第10代・「崇神(すじん)天皇」である。
      なお、「崇神天皇」は徐福一族が呼び寄せた政治家であり、
      第12代・「景行(けいこう)天皇」は職業軍人である。
      (神武~綏靖(すいぜい)までは九州王朝、欠史八代とは                                                   ナガスネヒコ政権、または徐福の子孫を指す)

     ◆「富士王朝」側に属した人物として、下記の人名が挙げられる。
        崇神天皇景行天皇ヤマトタケル・・・・(いわゆる騎馬民族
        武内宿禰神功皇后応神天皇・・・・(いわゆる海部(あまべ)族)

       ※つまり、筆者のおとぎ話では、これらの人物こそ、
        渡来人=秦氏=『失われたユダヤの10支族』であり、
        騎馬民族と海人族による連立政権が誕生して、
        日本の歴史に深く関与してきた。

 

次回は、『倭国大乱』にみられるように、小国の連合であった倭国が、
『白村江の戦』での大敗から中央集権国家へと変化していく様子に迫っていく。

 


       ~ つづく ~

 

『やまと朝廷』と『神武天皇』

大和朝廷ヤマト王権)】 ※ウィキペディアより引用。

ヤマト王権(ヤマトおうけん)とは、3世紀から始まる古墳時代に「王」や
「大王」(おおきみ)などと呼称された、倭国の首長を中心として、
いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織である。
今の奈良盆地を中心とする大和地方の国が、まわりの国を従えたことから
こう呼ばれる。
 旧来より一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、
歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは、
必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、
その歴史観を反映する用語としてヤマト王権の語等が用いられはじめた。

呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」
「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている。
 古墳時代の後、飛鳥時代での天皇を中心とした日本国の中央集権組織のことは、
「朝廷」と表現するのが一般的な表現である。

「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の古事記』や
日本書紀や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、
「大和」の漢字表記はなされておらず、倭(ヤマト)として表記されている。
三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。
 その後701年の大宝律令施行により、国名(郡・里(後の郷)名も)は
二文字とすることになって大倭となり、「橘諸兄(たちばな の もろえ)」政権
開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、
恭仁京」(くにきょう/くにのみやこ 現在の京都府木津川市加茂地区)遷都に
先立って大養徳となったが(地名のみならずウジ名も)、
藤原仲麻呂」権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)(前年に、
恭仁京完全廃棄(9月に大極殿を山背国分寺に施入))に大倭に戻り、
そして天平宝字元年(757年)(正月(改元前)に諸兄死去)の後半頃に、
大和へと変化していく。

 

邪馬台国連合と纒向(まきむく)遺跡】

魏志倭人伝は、3世紀前半に邪馬台国卑弥呼が現れ、
国々(ここでいう国とは、中国語の国邑、すなわち土塁などで囲われた都市国家的な
自治共同体のことであろう)は、卑弥呼を「共立」して倭の女王とし、
それによって争乱は収まって30国ほどの小国連合が生まれた、とし、
親魏倭王」印を授与したことを記している。
 邪馬台国には、大人と下戸の身分差や刑罰、租税の制もあり、
九州北部にあったと考えられる伊都国には、「一大率」という監察官的な役人が
置かれるなど、統治組織もある程度整っていたことが分かる。
 編年研究の進んだ今日では、古墳の成立時期は3世紀末に遡るとされているため、
卑弥呼を宗主とする小国連合(邪馬台国連合)が、ヤマトを拠点とする「ヤマト政権」
ないしヤマト王権」につながる可能性が高くなったとの指摘もある。

 

【神武東征と建国】

「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」日向国(ひゅうがのくに、現在の宮崎県)に
あったが、甲寅年、45歳のときに「饒速日(にぎはやひ、物部氏の遠祖)」が
東方の美しい国に天下った話を聞いた。
「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」は、自らの兄や子に東へ遷ろうとすすめて
その地(奈良盆地)へ東征(神武東征)を開始した。
「速吸の門(はやすいのと、豊予海峡の古称)」では、
国神である珍彦(うずひこ、倭国造の祖)に出会い、
彼に椎根津彦(しいねつひこ)という名を与えて道案内にした。
筑紫国菟狭(うさ)の一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)、
同国崗水門(おかのみなと、福岡県北部、遠賀川河口付近の古地名)を経て、
安芸国(あきのくに、広島県広島市安芸区)の埃宮(えのみや)、
吉備国(きびのくに、古代日本の地方国家。 現在の岡山県全域と広島県東部と
香川県島嶼部および兵庫県西部にまたがり、筑紫、出雲、大和などと並ぶ有力な
勢力の一つ)の高島宮(たかしまのみや)に着いた。
 「磐余彦(いわれびこ)」は宿敵「長髄彦(ながすねひこ)」と戦い、
饒速日命(にぎはやひのみこと)」は、その主君であった「長髄彦(ながすねひこ)」を殺して帰順した。
 辛酉年、「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」は、「橿原宮(かしはらのみや)」で
はじめて天皇位につき(神武天皇
始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称された。
伝承上、これが朝廷および皇室の起源で、日本の建国とされる。
(詳しくは次回のブログで。)

 


次回は、倭(ヤマト)と邪馬台国神武天皇に隠された“卑弥呼”の暗号に迫っていく。

 

 

        ~ つづく ~

造化三神と『父と子と聖霊』           ~ 神道に隠された『イエス』の暗号

過去のブログ記事にもあるように、『4大文明』が事実に基づくものではなく、
日本の歴史教育は『ねつ造』そのものであると言っても、過言ではない。

 ここで、簡単におさらいしておくと、

歴史とは?
  英語で「History」=「His(彼の=勝者の)」+「Story(物語)」


ウィキペディアによる歴史年代比較

   縄文時代(16,000±100年前~約2,300年前)   
   シュメール文明(紀元前8000年頃~紀元前2000年頃)   
   長江文明(紀元前14000年ごろ~紀元前1000年頃)   

   黄河文明(紀元前7000年?~紀元前5000年?)   
   古代イスラエル王国(紀元前11世紀~紀元前8世紀)
   
過去の文明を比較すると、縄文時代が最も古く、そして、
いかに長く続いていたか(10,0000年以上続いている、皇紀よりも遥かに永い)確認
できると思う。この縄文時代を生きた縄文人が、野蛮で文字も持たなかった? 
そう思わされてきたのには理由があった。
 その秘密として、この日本に伝わる神道』とキリストとの関係
全ての宗教の源である『神道』の知られざる真実に迫っていく。

 


神道』の根源になる“造化三神(三柱)”に隠された“イエス”の暗号


  ① 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
     旧約聖書では、『主神』をとって、“アヌンナキ”が
     『なる』という唯一神を名乗り、やがて、
     ユダヤ教では“ヤハウェ”(日本語では“エホバ”、
     意味は“わが主”)と変化していった。


  ② 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
     皇祖神は、7世紀以前は『天照大神』ではなく、
     高御産巣日神だった。詳しく言うと、
     皇祖神が『天照大神』になったのは、7世紀に持統天皇(女帝)』
     治めるようになってからで、女帝の正当性を国民に認知させる目的も
     あって、『記紀』では皇祖神も女神『『天照大神』に変えられたと
     いう説が有力視されている。

      日本書紀では、「皇祖たかみむすひ」と表記されている事実もある。
       ⇒ 皇祖神を『天照大神』に変えた正当性とともに、
         変更前の皇祖神についても、記録を残していた。
         (神代下第弾九段「天孫降臨」条

     『たかみむすひ』は、高天原(聖書で言う天国)を仕切り、
     天孫降臨を導く最高神としても書かれている。
      また、今日の天皇陛下も、“月次祭”のとき、宮中の“八神殿”で
     『たかみむすひ』をはじめ『宮中八神』にご加護の感謝を述べる儀式を
     行うが、その“八神”に対する祈りに捧げられているのは、
     『たかみむすひ』であって、『天照大神』ではない
      また、“むすひ”には「霊力を生じる」の意味はあり、
     さらにヘブライ語で解釈すると、「霊(油)を注ぐ」という意味の
     “ムシュハ”が語源とも。そして、古代イスラエルでは、
     「油を注がれたもの」=「マシャハ(意味はメシヤ、救世主)」
      
     そして、神道の間では、高御産巣日神』は『天之御中主神』の
     “御子”と理解されている。

     以上をまとめると、『高御産巣日神』はキリスト教でいう「神の御子」に
     相当する。さらに、「たかみむすひ」ヘブライ語にすると、
     「タカン・マシャラ」となり、「メシヤなる仲介者」の意味を持つ。


  ③ 神産巣日神(かみむすひのかみ)
     神道では、高天原に満ち、「地上の神々に息づく霊」として
     理解されている。⇒キリスト教で言う聖霊
     「かみむすひ」をヘブライ語で解釈すると、
     「カム・ムシャハ」となり、「霊を注ぐ始源者」の意味になる。

 

だから、神道が先か、旧約聖書が先か、というのは、ニワトリかタマゴかの
議論になるのだが、旧約聖書が書かれた時期は、古代シスラエル王国が南北に
分裂した後、南ユダの2支族が“バビロン捕囚”になったときに、
バビロニア国王の管理下で編纂されたものであるから、
縄文時代から続く日本の神道の歴史の方が、はるかに古いことは理解できると思う。

さらに、イスラエルの祖ヤコブは、もともとシュメールにいて、
その子孫たちが、エジプトからモーセに率いられて“カナン”に移住し、
古代シスラエル王国を建国した流れからみても、
旧約聖書(および、旧約聖書を基盤とするキリスト教ユダヤ教も)は、
シュメール王国(海を渡った縄文人含む)~エジプト~古代イスラエル王国~
バビロニア王国(捕囚)の影響を全て受けて(ごちゃ混ぜのように混ざりあって)
編纂された背景がうかがえる。

 


次回は、大和朝廷に切り込んでいく・・・

 


      ~ つづく ~

卑弥呼の暗号について

筆者が追跡調査している「卑弥呼」の途中経過の報告。
(途中で脱線するかも・・・)

古事記』『日本書紀』に登場する「神宮皇后」が暗号になっていると
筆者は考えている。そして、「神宮皇后」「卑弥呼「トヨ」
邪馬台国」「倭(やまと、わ)」は一蓮托生で、
天照大神」にもつながる、壮大な展開が・・・?

 


【神宮皇后と卑弥呼

日本書紀』編纂の際、年代設定の基準としたのが、『三国志魏志倭人伝』である。
60年で1周する干支には、1260年周期で訪れる辛酉の年には革命が
起こるという古代中国の思想が、日本に伝えられた。
魏志倭人伝によると、西暦239年に邪馬台国の女王「卑弥呼」は、
魏へ遣使した。朝鮮半島帯方郡(韓国のソウル近郊カ)を経由して
都の「洛陽」へ向かったと記述されている。当時の中国大陸は
魏のほかに、呉・蜀という国があり、三国時代と呼ばれたが、
卑弥呼が魏に使者を送る1年前の238年まで、中国大陸の東北部には
公孫氏がという国を興しており、当然、邪馬台国朝鮮半島経由では
魏に遣使できなかった
邪馬台国から朝貢(ちょうこう、皇帝にみつぎものを献上すること)を
受けた魏の皇帝の詔文が魏志倭人伝に記録されている。詔文を全文記録して
いるのは、『三国志』の中では邪馬台国の遣使に対してだけである。
魏が、倭との関係を重視していたことがわかる。
ちなみに、詔文の後には、卑弥呼が死んだということを記した
卑弥呼以死大作冢」という文が記されている。
 
日本書紀巻九』神功皇后紀」には、『魏志倭人伝』を割注として
引用している箇所がいくつかある。その中に、現行の『魏志倭人伝』では
景初二年となっている(景初二年六月倭女王)が、日本書紀では
景初三年と書かれている(神功皇后の卅九年。魏志云、明帝景初三年六月、
倭女王…)。
朝鮮半島や台湾の教科書では原文に倣い、景初二年を採用している。
少し時代が下った6世紀前半の『南斉書』などにも景初三年と記されている。
日本では、景初三年が正しいとしているのであるが、その理由として
挙げられるのが、景初二年の西暦238年は、先ほど述べたように、
公孫氏の燕国があるため、魏に向かうことはできないからである。
 『神功皇后紀』の紀年を西暦に換算すると、神功39年は西暦240年にあたる。
これは、神武天皇の即位を辛酉年のB.C.660年であることを基に算出している。
その影響で、『記紀』(『古事記』と『日本書紀』との総称)では
神武以降の何代かの天皇は、大変な長寿となり、
第2代「綏靖(すいぜい)天皇」から第9代「開化(かいか)天皇」までの
記述が非常に短いことで、欠史八代(けっしはちだい)と呼ばれている。

また、第10代「崇神(すじん)天皇」が初代天皇であり、
崇神天皇」の事績を「神武天皇」の事績として充てたという説なども
江戸時代から議論されている。
確実なのは、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文の解析などに
よって、5世紀後半には、「雄略(ゆうりゃく)天皇」(『日本書紀』では
大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)の実在がほぼ確定している。
 日本の古墳時代の始まりは、現在では西暦250年あたりとされている。
「纏向勝山古墳(まきむくかつやまこふん、奈良県)」や
「ホケノ山古墳(奈良県)」は、「卑弥呼」の時代の古墳でおそらく間違いない
だろう。卑弥呼や、その後継者である台与(壹与 とよ)の死後、
乱れた倭国(わこく、やまとこく=日本の旧名)をまとめたのが、
崇神天皇であり、それが天皇家の始まりであるという考えが通説と
されている。

  ※籠(この)神社の宮司から聞いた話によると、
   「宇宙は「多次元同時存在の法則」があると伝えられており、
   『記紀』にもこの法則が適用されている。」と聞いたことがある。
   さらに、宮司はこうも言っていた。「『記紀』に登場する人物に
   使われている“神”は“同一人物”であり、「多次元同時存在の法則」を
   表している」と。
    となると、
     初代天皇の「神武天皇」=第10代「崇神(すじん)天皇
     =第15代「応神(おうじん)天皇」(仲哀天皇の第4皇子。
      母は神功皇后)!!

また、纏向遺跡(まきむくいせき、奈良県の研究を起爆剤として、
全国各地で行われた土器の研究から、古墳時代の始まりは220年~250年頃まで
遡ることになる。そうなると、天皇系譜と卑弥呼との関係が複雑になる。
弥生時代には古墳が存在し、すでに天皇が在位していたことにもなる)

 


【神宮皇后(じんぐうこうごう)】

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、日本武尊ヤマトタケル)の子)
皇后。古代日本の摂政
 父は「開化(かいか)天皇玄孫・息長宿禰王(おきながの
すくねのみこ)」で、母は渡来人の新羅王子「天日矛(あめのひぼこ)」の
裔(えい=子孫)・「葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)」。
妹に「虚空津比売(そらつひめのみこと)」、「豊姫」がいる。

仲哀天皇熊襲(くまそ、九州南部)征伐に随伴する。
 仲哀天皇9年2月の天皇崩御熊襲で殉職)に際して遺志を継ぎ、
3月に熊襲征伐を達成する。同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み、
百済、高麗をも服属させる(三韓征伐)。
12月、天皇の遺児である「誉田別尊(ほむたわけのみこと)」を出産。
翌年、帰国して摂政となり、「誉田別尊」を太子とした。
 誉田別尊が即位するまで政事を執り行い、聖母(しょうも)とも
呼ばれる。摂政69年目に崩御

 


熊襲(くまそ、九州南部)征伐】

即位8年、熊襲討伐のため「神宮皇后」とともに筑紫に赴いた「仲哀天皇」は、
神懸りした皇后から託宣(たくせん)を受けた。
 それは熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を
渡り、金銀財宝のある新羅を攻めるべし、そうすれば戦わずして勝つだろう、
という内容だった。(熊襲は、当時の朝鮮と連携して朝廷を乗っ取る計画を
企てていたようである)
 神は再度、皇后に神がかり「天皇は国を手に入れられず、妊娠した皇后が
生む皇子が得るだろう」と託宣した。
 それでも神を信じられない「仲哀天皇」は、構わず熊襲を攻めた。
日本書紀内の一書(異説)や『天書紀』では、熊襲の矢に当たり、
橿日宮(かしいぐう)で崩御したとされる。
 遺体は「武内宿禰」により海路で穴門(穴戸、現在の下関海峡)を通って
豊浦宮(とゆらのみや、現在の下関市)で殯(もがり、古代の葬儀儀礼)された。

 


【豊姫】

神功皇后」の妹 で、魏志倭人伝』の「台与(とよ)」の候補の一人。
昔から幾つかの神社で祀られている。
 魏志倭人伝卑弥呼が死んだ後、男王が立ったが国中が
従わなかったとする。そのため千人ほどが死ぬ戦乱となったとする。
そこでふたたび卑弥呼と同族の女性、十三歳の台与(とよ)が擁立され、
ようやく国が定まったとする。
 『勘注系図では、私が卑弥呼とする宇那比姫(うなびひめ、
卑弥呼の説もあり)の二世代後に、卑弥呼と同じ、
大倭姫(おおやまとひめ)という「大和王権の女王」の名を持つ女性
登場する。この人の亦の名を「天豊姫命(あめのとよたらしからひめの
みこと)」という。

  ※「宇那比姫(うなびひめ)」と「卑弥呼」と
   「大倭姫(おおやまとひめ)」と
   「天豊姫命(あめのとよたらしからひめのみこと)」を
   同一人物(多次元同時存在の法則)とする説もある。

   「天豊姫」の「天」は、この一族に付けられる姓のようなもので
   あるから、名前は「豊(とよ)」である。これは『魏志倭人伝』の
   「台与」に通じる。
    「天豊姫命」の父親は、七世孫「建諸隅命(たけもろずみのみこと)」で
   ある。「建諸隅命」は「宇那比姫」の甥である。
   したがって「建諸隅命」の児、「天豊姫」は「宇那比姫」と同族である。
   魏志倭人伝』が伝える「宗女」なのである。

    ※「宗女」とは?
      魏志倭人伝の中に「宗女(イヨもしくはトヨ)」とある。

 

 

弥生時代になると、旧日本(倭国)に渡来人(海を渡った縄文人の子孫の帰還)が
移住するようになると同時に、渡来人の中には朝鮮半島を経由し、
百済や高麗とは異なる文化を残しながら、日本に移住してきた部族もいた。
おそらく、この部族たちが、当時の百済や高麗の人たちから
「好かれていなかった」ことから、後に日本の権威(とくに皇位)を
脅かすようになったとも考えられる。
 熊襲(くまそ)征伐は「百済」や「新羅」との連合軍で結成された
反勢力部隊との戦いでもあったため、後方支援をする「新羅」を攻めた方が得策、
というのが、「神宮皇后」が受けたとされる「宣託」と解釈できる。

また、岡山県吉備国にも、百済から「倭国乗っ取り」を企んでいた
「ウラ一族」の伝承がある。(おとぎ話「桃太郎」のモデル
 この伝承については、またの機会に・・・


さらに、『日本書紀』によると、「仲哀天皇」が熊襲征伐の際に、
斬首されたとの記録もあり、このとき、「天皇の首がほしければ、
取りに来い」と「神宮皇后」に伝えられている。
 そこで、皇后は、天皇の魂を宿した神輿を造らせ、各地の豪族に
伝書鳩(文字があったという根拠にも)』を飛ばして集めたという。
そして、集まった豪族たちが神輿を担ぎ、名乗りを上げた後、
こう叫んだという。「倭(わ)を背負(しょ)ってたたかう!」と。
さらに、その叫びは繰り返され、徐々に早くなり、
「倭を背負う(しょう)」 ⇒ 「わーしょう」 ⇒ 「わっしょ」
そう、この事件が、神輿を担ぐときの掛け声「わっしょい」の起源と
される。
 さらに、「わっしょい」が進化しているところも・・・
「わっしょい」をひっくり返し、「しょいわ」となり、「そいや」に。
「そいや」・・・前略、道の上より・・・関係あるかも?


歴史の教科書では、縄文時代弥生時代~(古墳時代)~大和時代 と
教わったと記憶しているが、実際、『記紀』や『魏志倭人伝』などの記録を
照合していくと、「弥生時代」は“あいまい”(無かったとも・・・)で、
実際は、縄文時代末期に「徐福」が移住してから、
一気に天皇制(邪馬台国大和朝廷に動いていったと考えられる。

 


          ~ つづく ~

縄文から弥生へ

ウィキペディアによれば、縄文時代は、16,000±100年前~
約2,300年前(紀元前4世紀ごろ)とされる。
 また、弥生時代は、紀元前10世紀頃~紀元後3世紀中頃。

 卑弥呼邪馬台国、紀元後2世紀~3世紀)の時代は、
 弥生時代に含まれていることと、
 日本の正史とされる『古事記』『日本書紀』に記録がないことから、
 謎も多い(意図的に隠されている?)。

そして、縄文時代が終わりを迎え、弥生時代になると、日本に
大陸からの渡来人が流入するようになり、様々な分野で縄文文化
融合するようになっていった。

イスラエル王国アッシリアに滅ぼされ、『失われた10支族』と
なったのも、南ユダ王国がバビロン捕囚となり、帰還後、
ソロモン神殿を再建したのも、日本では縄文時代末期~弥生時代
当たる。
 
 また、中国では「春秋戦国時代」が縄文時代末期~弥生時代に当たる。

    春秋時代が紀元前770年~紀元前403年、
    戦国時代が紀元前403年~紀元前221年。

    この戦国時代のころに、“魏”の国と交流があったのが
    “邪馬台国”の“卑弥呼”で、「親魏倭王(しんぎわおう)」と
    いう封号(金印)を与え られている。
     (封号(ほうごう)とは、授封ないし冊封に当たって授与する
     爵位であり称号。爵号(しゃくごう)とも)

 

最初の融合(渡来人)は、長江文明(紀元前14000年ごろ~紀元前1000年頃)を
引き継ぐ“呉”(中国で春秋戦国時代に存在した国の一つ)から、
命がけで逃れてきた(世代を超えて帰還した)縄文人の子孫たちだった。

 ウィキペディアによれば、
 「雨季を人工的に作り出す農法から大陸の暖かい地域で発生し、
 国内で発掘された稲の遺伝子が、この地域のジャポニカ種と同じであった為に、
 弥生時代に日本へ水稲耕作をもたらした人々弥生人)は、
 長江文明が起源とする説もある。」

歴史の教科書にも出てくる、弥生時代の『水田による稲作』伝来は、
“呉”からの渡来人(長江文明の継承者たち)の可能性がある。
また、『呉服』は、“呉”の国から日本に伝わった織り方によって
作られた反物に由来し、綿織物や麻織物を意味する太物(ふともの)に対し、
絹織物を意味する語として使われるようになった。

 ※絹織物はシルクロードを通って伝えられていることから、
  『失われた10支族』が関与している可能性も高いとされる。

 

また、『秦』から『徐福(じょふく)』も来日している。

 【徐福(じょふく)】
   史記巻百十八「淮南衡山列伝」によると、始皇帝の命を受け、
  3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、
   財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの
   三神山(不死の山=現在の富士山)には到らず、
   「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王(伝説の富士王朝)となり、
   秦には戻らなかったとの記述がある。

     ※また、邪馬台国の『卑弥呼』も『徐福』の子孫を意味する
      「言い伝え」も各地にあることから、筆者としても、
      その真偽を追跡調査しているところである。

   そして、徐福は“天孫族”(後の神武天皇を含むイスラエル
   10支族“ガド族”)の先遣隊でもあった。
    そう、出雲族との“お見合い”(結婚前の儀式=3種の神器による
   『語呂(5と6)合せ』)により、日本(当時の倭(やまと)国)に
   天孫族本体を迎え入れるための基盤(準備)を造ることが、
   “真の目的”だった。

 

 ※『語呂合せ』とは?

   『5(ご)』と『6(ろく)』を合わせるという意味。

   『5(ご)』
     五角形(五芒星)であり、天孫族
     “人”が手足を広げた形(大の字)の頂点を結ぶと、
     五角形(五芒星)が現れる。
      同様に“鶴(とり)”が地に降り立ち、羽を広げた形でもある。
     『5(ご)』の象徴が“伊勢神宮”。

   『6(ろく)』
     六角形(六芒星)であり、出雲族
     “亀の甲羅”を象徴とし、出雲大社の社紋にもなっている。

   写真は、左が『日光東照宮の鶴と亀』、
   右が『籠(この)神社の亀に乗った倭宿禰(やまとのすくね)』。

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   出雲族天孫族『国譲り』が、
   『5(ご)』と『6(ろく)』を合わせた『語呂合せ』であり、
   縄文人(日本の国造りに尽力してきた)と“渡来人”が、
   島国『日本』とその民をいかに守るか知恵を出し合い、
   争いではなく協力し合うことで合意したという“証”が『語呂合せ』。

 


   
          ~ つづく ~