『聖徳太子』と『イエス・キリスト』

日本史を語る上で、この方を抜きには語れない存在・・・
そう、お待たせしました。聖徳太子の登場です!
 とは、言っても、ここでは、筆者の個性を「フルマックス」に
発揮して斬新な切り口で切り込んでいきます!

表題にもあるように、『イエス・キリスト』と『聖徳太子』には
意外な共通点が見られるので、ここでは、「ローマー皇帝」はじめと
する「西洋の王族」に都合よく編纂された『キリスト教』ではなく、
キリスト教』の聖典『聖書』から意図的に除外(外伝扱い)され
たであろう“おとぎ話”を中心に、筆者の持論
展開する(大河ドラマを楽しむ感じで)。

 

イエス・キリスト

  『イエス・キリスト』には「マグダラのマリア(別名:携香女
  (けいこうじょ)」という妻がいた
    ということは、子孫がいても不思議はない

  『空白の18年間』
    聖書によると、イエスが12歳でエルサレム神殿を訪れた後、
    30歳ころに伝道活動を始めるまでの“約18年間”の
    記録がない。(空白の18年間ともいわれる)
     日本の古文書竹内文書、宮下文書など)によれば、
    イエスは『天の浮船(あめのうきふね)』に乗って世界巡業を
    していたという記録もある。さらに、『天の浮船』⇒
    『テンクウ・フネ』⇒『テンク』⇒『テング(天狗)』に
    なったとの伝承もある。
     古文書によれば、インド、チベット、中国、日本各地、
    中南米(ホピ族、エスキモーなどのアメリカ原住民)を回り、
    『宇宙の真理』を説いていたとも・・・
     そして、妻がいたとなれば、巡業の地で『子孫』を残して
    いても不思議はない。

  磔刑(十字架)と「七」の意外な関係』
    イエス・キリストは、弟子のひとり「ユダ(ユダヤ人と称する
    南ユダ王国のユダ族の代表)」の裏切り行為によって、
    磔刑に処せられたのだが、この磔刑から『七』という漢字が
    誕生することになる。
     十字架「(十)」の縦棒の下からしたたれ落ちる
    との)が『七』になった。だから、もともとの
    『読み』も『ひち』であった。
     ところが、明治維新のときに「都(天皇のお住まい)」を
    「東()の都」(東京)に移した(遷都した)。
     くだらない“ダジャレ”と思われるかもしれなしが、この
    とき、関東を中心に、『七』(ち)⇒『七』(ち)と読む
    ようになった。(文字通り、都を『』に移したことによる)
     参考までに、江戸時代の「岡っ引き」が持っていた『十手』
    も『十』という字が使われているが、形状は、どう見ても
    『七』の方に似ている。これは、エス磔刑(十字架)に
    由来しているというのが、筆者の持論である。

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広隆寺とキリストの関係】

  広隆寺のルーツが景教(原始キリスト教新約聖書編纂前に伝え
  られたとされる。景教空海が開いた真言宗と関連性があると
  も。)にあるという根拠が、広隆寺が建立された場所(太秦=う
  ずまさ)にある。
   『日本書紀』によると、「秦酒公(はたのさけのきみ)」が
  朝廷に税を献上する際に、絹を“うず高く積み上げた”ことに
  感動した天皇が、「禹豆満佐=うずまさ」という姓を秦氏に与え
  たのが由来であり、それに秦氏の拠点(太)という意味で「太秦
  の漢字を当てたなどと言われている。
   そして、「太秦(うずまさ)」の意味は、ヘブライ語で解釈する
  と、「自らの命をささげて処刑されたメシヤ」の意味になるという。

 

聖徳太子

  聖徳太子は、厩戸前にて出生したので、厩戸皇子(うまやどのみこ、
  うまやどのおうじ)もしくは、厩戸王(うまやとおう)と呼ばれて
  いる、飛鳥時代の皇族・政治家。
   聖徳太子」は、後世の諡(おくりな)
    ⇒ イエスも「馬宿」で生まれたとされている。
  日本書紀によれば、聖徳太子は、「橘豊日皇子(たちばなとよひの
  おうじ)」と「穴穂部間人皇女((あなほべのはしひとのひめ
  みこ)」との間に生まれた。
  「橘豊日皇子」は「蘇我稲目(そがのいなめ)」の娘
蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)」を母とし、
穴穂部間人皇女」の母は同じく稲目の娘・「小姉君(おあねの
きみ)」であり、つまり厩戸皇子』は蘇我氏と強い血縁関係にあった。
蘇我氏と言えば、「蘇我馬子(そがのうまこ)」、読んで字の
ごとく、「われ、よみがえる、うまのこ」
 592年、日本初の女帝(女性天皇)と言われる推古天皇
皇位についたとき、皇太子となった厩戸皇子聖徳太子)』
蘇我馬子』が天皇を補佐した。

推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張の
なかで遣隋使を派遣するなど、中国の文化・制度を学び、
「冠位十二階」「十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした
中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を取り入れ神道ととも
に厚く信仰し興隆につとめたとされる。

   ・592年、摂津国難波(現在の大阪)に四天王寺を建立した。

   ・594年、『仏教興隆の詔』を発した。
     「厩戸皇子」は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)
     までに三経義疏を著した。

   ・603年、「冠位十二階」を定めた。
     氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、
     天皇の中央集」権を強める目的であったと言われる。

   ・604年、「十七条憲法を制定した。
     豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、
     仏法を敬うことを強調している。

   ・607年、屯倉(みやけ、朝廷の直轄地)を各国に設置する。
     高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、
     山背国栗隈に大溝を掘る。

   ・607年、小野妹子」を使者とし随に『国書』を送った。
     翌年、返礼の使者である「裴世清(はいせいせい)」が訪れた。
     「日本書紀」によると「裴世清」が携えた書には
     「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。
     これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の
     皇帝に敬まひて白す)とあり、隋が「倭皇」とした箇所を
     「天皇」としている。この返書と「裴世清」の帰国のため、
    妹子らを再び隋へ派遣した(遣隋使の始まり)。

      ※『国書』に書かれていたのは、有名な内容。
        「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。
        恙なきや。」
         ⇒ 当時の隋は大国であり、軍事力もあった。
           高句麗を攻め、領土にしようとしていた。
           「国として中国と対等な日本」にするという
           強い意志の表れで、国として独立するという
           「国づくりの方針」を示したもの。

 

  「豊聡耳(とよさとみみ)」

   「厩戸皇子」が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を
   開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が
   発した言葉を漏らさず一度で理解し、的確な答えを返したという。
    この故事に因み、これ以降皇子は「豊聡耳(とよさとみみ)」
   とも呼ばれるようになった。(10人は、『失われた10支族』とも)


  「兼知未然」

   『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて
   未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に
   「未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)」の存在が
   噂される一因となった。
    しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の
   架空の書か風聞の域を出ないものと言われている。江戸時代には、
   人心を惑わす偽書であるとして幕府により禁書とされ、
   編纂者の潮音らが処罰された『先代旧事本紀大成経』にある
   『未然本記』も未来記を模したものとみることができる。


  「出生について」

    「母・間人皇女(はしひとのひめみこ)は、西方の
    救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り、厩戸を
    身籠もった」(受胎告知)などの太子出生伝説に関して、
    「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教キリスト教
    ネストリウス派)が日本に伝わり、その中からイエス誕生の
    逸話が聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える
    研究者(久米邦武が代表例)もいる。
     しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が
    流入した影響と見なす説が主流である。
     出生地は橘寺(たちばなでら)、またはその付近とされる。
    橘寺は「田道間守(たぢまもり、菓子の神とも)」が
    「垂仁(すいにん)天皇」の御世に、常世の国から持ち帰った
    橘の実の種を植えた場所といわれる。


  四天王寺

    大阪市天王寺区。『日本書紀』によれば、蘇我氏物部氏の戦いに
    おいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、四天王を
    安置する寺院を建てると誓願を立てた。
     見事勝利したので、摂津国難波に四天王寺を建てた。
    なお、聖徳太子の佩刀(はいとう)とされる「七星剣」と
    「丙子椒林剣(へいししょうりんけん)」が現在、四天王寺
    保管されている。
     本尊は救世観音で、四天王寺では聖徳太子の念持仏の
    「如意輪観音(にょいりんかんのん)」とも同一視される。
    

  法隆寺

    奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺は「用明(ようめい)天皇」が
    自らの病気平癒のため建立を発願したが、志を遂げずに崩御
    したため、遺志を継いだ推古天皇聖徳太子が、
     推古天皇15年(607年)に寺と薬師像を造ったという。
    『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したとの
    記事がある。この記事をめぐり、現存する法隆寺(西院伽藍)は、
    聖徳太子の時代のものか、天智天皇9年(670年)以降の再建かに
    ついて長い論争があったが、「若草伽藍(わかくさがらん)」の
    発掘調査により、聖徳太子時代の伽藍(がらん=寺院の建物の
    こと)は一度焼失し、現存の西院伽藍は7世紀末頃の再建である
    ことが定説となっている。
     「夢殿」を中心とする東院伽藍は太子の営んだ「斑鳩宮(い
    かるがのみや)」の旧地に建てられている。

     ※再建であっても、「西院伽藍」は現存する世界最古の
      木造建築物群。


  「大工の祖」

    聖徳太子は大工の祖だとされている。
     現存世界最古の木造建築物を有する法隆寺奈良県斑鳩町)などを
    建立したことや、大工道具・曲尺(かねじゃく。矩尺)を広めたこと
    などが、その理由とされている。(世界的に有名な秘密結社との
    関連もささやかれている・・・)

     ⇒ 「キリスト」も大工であった。
        (「マタイの福音書」と「マルコの福音書」に、
        「郷里の人々の言葉」として書かれている。)


聖徳太子の後、『大化の改新』~『白村江の戦い』を経て、
天智天皇天武天皇持統天皇によって、「倭国から日本に」大変革を遂げ、
日本の政治基盤の確立につながっていった。
 しかしながら、この後も皇位継承や権力をめぐる闘争が断続的に続き、
預言者道鏡」も現れ、皇室の危機を救う英雄が
登場する『ドラマ』も実在した。

 

 

       ~ つづく ~

 

大化の改新 ②

【改新の第三段階】

  翌大化2年(646年)正月には、新政権の方針を大きく4か条に
  まとめた「改新の詔」も発布された。
  改新の詔は、ヤマト政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を
  廃止し、天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容と
  なっている。

  ※「改新の詔」
     日本の飛鳥時代中期の大化の改新において、
     新たな施政方針を示すために発せられた詔。
      難波長柄豊碕宮で発せられたとされる。
     この詔は『日本書紀』に掲載されている。

   第1条 
    天皇・王族や豪族たちによる土地・人民の所有
    廃止するものである。
    ⇒ 土地・人民に対する私的な所有・支配を排除し、
      天皇による統一的な支配体制への転換。

   第2条
    政治の中枢となる首都の設置、畿内・国・郡といった
    地方行政組織の整備とその境界画定、中央と地方を
    結ぶ駅伝制の確立などについて定めるものである。
    ⇒ 次に挙げられる地方行政組織の整備は、畿内
      国(令制国)・郡の設置が主要事項だった。
      畿内とは、東西南北の四至により画される範囲をいい、
      当時、畿内令制国は置かれなかった。
      後の天智天皇の頃にようやく令制国が画定することと
      なった。

   第3条
    戸籍・計帳という人民支配方式と、班田収授法という
    土地制度について定めている。
    ⇒ 大化当時に戸籍・計帳の作成や班田収授法の施行は
      実施されなかったが、何らかの人民把握(戸口調査
      など)が実施されただろうと考えられている。

   第4条
    新しい税制の方向性を示す条文である。
    ⇒ ここに示される田の調とは、田地面積に応じて賦課
      される租税であり、後の律令制における田租の前身に
      当たるものと見られている。


  『大化の改新』には、「遣唐使」の持ってきた情報をもとに
  「唐の官僚制」と「儒教」を積極的に受容した部分が見られる。
  しかしながら、従来の氏族制度を一挙に改変することは現実的では
  ないため、日本流にかなり変更しながら適用されていった。

  政治制度の改革が進められる一方で、外交面では
  「高向玄理(たかむこのくろまろ)」を新羅へ派遣して人質を
  取る代わりに、すでに形骸化していた「任那(みまな)の調」を
  廃止して朝鮮三国(高句麗百済新羅)との外交問題を整理して
  緊張を和らげた。唐へは遣唐使を派遣して友好関係を保ちつつ、
  中華文明の先進的な法制度や文化の輸入に努めた。
  また、越に渟足柵(ぬたりのさく)磐舟柵(いわふねさく)
  設けて、東北地方の蝦夷に備えた(日本国内も内乱が続いていた)。

  ただ、改革は決して順調とは言えなかった。大化4年(648年)の
  冠位十三階の施行の際に左右両大臣が新制の冠の着用を拒んだと
  『日本書紀』にあることがそれを物語っている。
  
  ※渟足柵(ぬたりのさく)と磐舟柵(いわふねさく)
    大化3年(647年)には、渟足柵(新潟県新潟市東区辺り)
    が造られて柵戸も置かれ、翌大化4年(648年)には
    磐舟柵(新潟県村上市岩船辺り)が設置され蝦夷に備えた。

 

【諸制度の改革】

  ・薄葬令(はくそうれい)
    今まで陵墓は自由に作ることができたが、作ることの出来る
    陵墓を身分に合わせて規定し直した。殉死の禁止や、
    天皇陵の造営に費やす時間を7日以内に制限するなど、
    さまざまな合理化・簡素化が進められた。
    この薄葬令によって事実上、古墳時代は終わりを告げることに
    なる。

  ・習俗の改革
    男女の法の整理、交通問題の解決

  ・伴造、品部の廃止と八省百官の制定
    従来の世襲制の役職であった伴造や品部を廃止し、特定の氏族が
    特定の役職を世襲する制度を廃止した(たとえば、物部氏
    あれば軍事を司り、中臣氏であれば祭祀を司る、など)。
    これと八省百官の制定によって、より能力主義的な官僚制への
    移行が行われた(しかし祭祀などの面では、中臣氏がこれを行う
    というように世襲制が残った役職もあったようである)。

  ・大臣、大連の廃止
    大臣・大連は、廃止になり、代わりに太政官が置かれ、左大臣
    右大臣に置き換わった。大臣は臣の姓(かばね)から、
    大連は連の姓から出されることになっていたが、左大臣・右大臣
    (後に付け加わる太政大臣)などでは、臣・連の制約が無く
    なった。

  ・冠位制度の改訂
    聖徳太子の制定した冠位十二階を改定し、
    大化3年(647年)冠位十三階→大化5年(649年)十九階→
    天智3年(664年)二十六階へと改めた。
     これは従来、冠位十二階に含まれなかった、大臣・
    大連などを輩出する有力氏族を冠位制度へ組み込み、
    天皇を頂点とした中央集権的な序列をつける為の改革だと
    思われる。冠位の数が年々増加していったのは、
    膨大な人員を必要とする官僚制への切り替えにより、
    行政実務を担う下級官僚に与える冠位が不足したからと
    推測できる。

  ・礼法の策定
    職位に応じた冠、衣服、礼儀作法を制定した。冠位により
    身につけることの出来る衣服や礼法が決められた。
    冠位のない一般の良民は白い衣を身につける事とされ、
    これは白丁と呼ばれた。

  さらに、『白村江の戦い』で「唐・新羅の連合軍」に大敗を喫した後、
  百済高句麗は滅亡した。
   日本も朝鮮半島への足掛かりを失うばかりでなく、逆に
  大国である唐の脅威にさらされることとなった。
   中大兄皇子筑前対馬など各地に水城を築いて、
  防人や烽(のろし)を設置し、大陸勢力の侵攻に備えて
  「東の大津宮(おおみ・おおつのみや)」に遷都する一方、
  部曲(かきべ、古代の私有民や私兵などの身分のこと)を
  復活させて地方豪族との融和を図るなど、国土防衛を中心とした
  国内制度の整備に注力することになる。
   中大兄皇子は数年間称制を続けた後に、668年に即位した(天智天皇)。
  670年に新たな戸籍(庚午年籍)を作り、671年には初めての
  律令法典である近江令を施行している。
   以下は、『白村江の戦い』後の日本の外交をまとめたもの。

 

【戦後交渉および唐との友好関係の樹立】

  665年に唐のの「劉徳高(りゅう とくこう、唐の官吏)」が戦後
  処理の使節として来日し、3ヶ月後に「劉徳高」は帰国した。
   この唐使を送るため、倭国(日本)側は「守大石(もりのおお
  いわ、景行天皇皇子の「大碓命(おおうすのみこと)」の後裔を
  称する美濃国の豪族)らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。
   667年には、唐の百済鎮将「劉仁願(りゅうじんき、唐の武将)」が、
  熊津都督府(ゆうしんととくふ、唐が百済を占領後に置いた
  5都督府のひとつ)の役人に命じて、日本側の捕虜を
  「筑紫都督府(大宰府の唐風の名称)」に送ってきた。
   「天智天皇」は、唐との関係の正常化を図り、669年に
  「河内鯨(かわちのくじら、持統天皇のとき大学博士となり、
  儒学をおしえたともいわれる)」らを正式な遣唐使として派遣した。
   百済の影響下にあった「耽羅(たんら、済州島に存在した王国)」も
  戦後、唐に使節を送っており、倭国百済側として何らかの関与を
  したものと推定される。
   670年頃には唐が倭国を討伐するとの「噂」が広まっていたため、
  遣唐使の目的の一つには「噂」を確かめる為に唐の国内情勢を
  探ろうとする意図があったと考えられている。
   


【捕虜の帰還】

  684年(天武13年)、「猪使連子首(いつかいのむらじこびと)」・
  「筑紫三宅連得許(つくしのみやけのむらじとくこ)」が、
  遣唐留学生であった「土師宿禰甥(はじのすくねおい)」・「白猪史
  宝然(しらいのふびとほね)」らとともに、新羅経由で帰国したのが、
  記録に現れる最初の『白村江の戦い』における捕虜帰還である。

   690年(持統4年)、持統天皇は、筑後国上陽咩郡(かみつやぐん)の
  住人大伴部博麻(おおともべのはかま)」に対して、
  「百済救援の役で、あなたは唐の抑留捕虜とされた。その後、
  土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、
  筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)、弓削連元宝(ゆげのむら
  じげんぽう)の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上し
  たいが帰れないことを憂えた。その時あなたは、「土師連富杼(は
  じのむらじほど)」らに『私を奴隷に売り、その金で帰朝し奏上し
  てほしい』と言った。そのため、「筑紫君薩夜麻」や「土師連富杼」
  らは日本へ帰り奏上できたが、あなたはひとり30年近くも唐に留まった
  後に、やっと帰ることが出来た。わたしは、あなたが朝廷を尊び、
  国へ忠誠を示したことを喜ぶ」と詔して表彰し、
  「大伴部博麻」の一族に土地などの褒美を与えた。

 

【防衛体制の整備】

  白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇
  防衛網の再構築および強化に着手した。
   百済帰化人の協力の下、対馬や北部九州の大宰府水城(みずき)
  瀬戸内海沿いの西日本各地(長門、屋嶋城、岡山など)に
  朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には
  防人(さきもり)を配備した。さらに、667年に天智天皇は都を
  難波から内陸の「近江京」へ移し、ここに防衛体制は完成を見た。

 

【中央集権体制への移行と国号の変更】

  671年に天智天皇が急死すると、その後、
  皇位に就いた天武天皇は、専制的な統治体制を備えた新たな国家の
  建設に努めた。
   天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承され、
  701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、
  大陸に倣った中央集権国家の建設はひとまず完了した。

 

百済遺民の四散】

  天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)「鬼室福信
  (きしつ ふくしん、百済の王族)」の功により、その縁者である
  「鬼室集斯(きしつ しゅうし)」は「小錦下の位(冠位の一つ)」を
  授けられた(近江国蒲生郡(がもうぐん)に送られる)。
   百済王の一族、「豊璋王(ふよ ほうしょう、百済最後の王子)」の
  弟・「善光(ぜんこう)」は、朝廷から百済王(くだらのこにきし)」
  という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。

  ⇒ 後々、天皇(皇族)は、百済王の子孫という論調を展開し、
    以後の日本の歴史にも様々な影響(支障、謀反、反乱)が
    出てくることになる。
     皇族は「百済(くだら)と血縁関係がない」ことを、今も
    使われる言葉に残っている。『く・だ・ら・ね・え』

    そして、明治維新の立役者の一人でもあり、
    初代総理大臣となった「伊藤博文」も歴史を学んでいた。
    だからこそ、最後まで「朝鮮半島を統治下に置く、朝鮮併合」に
    反対した。


天智天皇天武天皇持統天皇までの3代にわたって、
大化の改新』~『白村江の戦い』を経て、
倭国から日本に大変革を遂げる壮大なドラマが、
かつての日本の歴史に、確かに存在した。

もし、『白村江の戦い』での敗戦で、
国策を誤ったら(というか現在のような弱腰外交を続けていたら)、
日本は消滅していた可能性がある
 おそらく、戦後、象徴となってからは政治的発言権が
なくなった「昭和天皇」の胸中は複雑だったのでは・・・

朝鮮半島に於ける敗戦の後、国内体制整備の為、天智天皇
大化の改新を断行され、その際、思い切った唐制の採用があった。
これを範として今後大いに努力してもらいたし。」

昭和天皇のお言葉である。

『温故知新』というように、過去の歴史(ねつ造ではなく真実)を
学ぶことが、いかに大事なことであるか?
 現在も、『白村江の戦い』と同様な戦後処理が続いている

 


        ~ つづく ~

 

 

大化の改新 ①


大化の改新(たいかのかいしん)」は、
皇極天皇(こうぎょくてんのう)」4年(645年)6月14日の
乙巳の変(いっしのへん)」に始まる一連の国政改革。
大宝元年(701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含む。
 改革そのものは、天皇ではなく、
「皇極太上(だいじょう=譲位した天皇天皇」と、
その親友とされる中臣鎌足(内臣)の主導のもと、
年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進された。

この改革によって豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと
移り変わったとされている。
 この改革により、「日本」という国号と「天皇という称号
使用が始まったとされる。また「大化」は日本最初の元号である。


  ※皇極天皇(こうぎょくてんのう)」
     重祚(ちょうそ、一度退位した君主が再び即位すること)
     して「斉明天皇(さいめいてんのう)」。
     日本の第35代・第37代天皇

  ※「乙巳の変(いっしのへん)
     中大兄皇子中臣鎌足らが、宮中で蘇我入鹿を暗殺して
     蘇我氏蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代
     政変(クーデター)。
      当時天皇を次々と擁立したり廃したりするほど、
     権勢を誇っていた「蘇我氏」を「皇極天皇」の皇居において
     「蘇我入鹿(そがのいるか)」を暗殺して滅亡させた。
      その後、中大兄皇子は体制を刷新して、『大化の改新』と
     呼ばれる改革を断行した。
      このクーデターである乙巳の変」に始まる一連の
     政治改革が「大化の改新であり、「乙巳の変」は
     「大化の改新」の第一段階でしかない。

  ※中臣鎌足
     後の「藤原鎌足(ふじわらのかまたり)」。
     日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。
     『大化の改新』の中心人物であり、改新後も
     「中大兄皇子天智天皇)」の腹心として活躍し、
     藤原氏繁栄の礎を築いた。

  ※「中大兄」
     後の天智天皇(てんぢてんのう)
     「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承
     資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味
     する語。
      『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での
     記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が
     天智天皇元年に相当する。

  ※「大海人」
     後の天武天皇(てんむてんのう)
     中大兄皇子にとっては両親を同じくする弟にあたるとされる。
     皇后の「鸕野讃良皇女(うののさららのおうじょ)」は後に
     持統天皇となった。

  ※蘇我入鹿
     「乙巳の変」で自害した「蘇我蝦夷(そがのえみし)」の子。
     大臣として大和朝廷の有力者であったが、
     乙巳の変」において討たれ、その後蘇我氏が凋落する
     きっかけとなった。
      自分の子女達を皇子と呼ばせたり、皇室行事を独断で
     代行したこと(傍若無人な振る舞い)で、皇位継承
     ライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らに
     よる乙巳の変」を招いた

 

大化の改新の第一段階】

  「蘇我入鹿」を暗殺して滅亡させた「乙巳の変(いっしのへん)」に
  より始まった。


大化の改新の第二段階】

  そして同年(大化元年)内に、初となる元号の使用
  「男女の法」の制定、「鍾匱の制」の開始、「仏法興隆の詔」の発布、
  十師の任命、および内臣・左大臣・右大臣の新設、
  私地私民の売買の禁止、飛鳥から難波長柄豊碕宮への遷都の決定など
  様々な改革が進められた。

  ※「男女の法」
     別名は良賤法(りょうせんほう)
     古代日本において良民と賤(賤民身分)との婚姻や生まれた子の
     帰属、戸籍上の扱いなどを定めた法制のこと。

  ※「鍾匱の制」(しょうきのせい)
     朝廷が投書によって人々の訴えを聞こうとした制度。

  ※「仏法興隆の詔」
     『日本書紀』によれば、「聖徳太子」二十一歳、
     摂政に就任した翌年、「推古(すいこ)」二年(五九四)の
     二月、天皇が皇太子及び大臣に「三宝興隆の詔」を下したと
     あるが、これは聖徳太子の進言によるもので、三宝
     すなわち「仏法僧の興隆」を推古天皇即位の翌年に早くも
     命じたものである。

  ※「十師の任命」
     僧侶を教導統制する10人の高僧。大化元年(六四五)に
     「唐の十大徳の制」にならって設置した。

  ※「国博士」
     大化の改新の際に「僧旻(そうびん 中国の僧)・高向
     玄理(たかむこのくろまろ)」が任ぜられた臨時職と
     思われる官名。官制整備の中枢となった。

  ※「内臣」
     内臣(うちつおみ/ないしん)は、飛鳥時代から平安時代
     初めにかけて置かれた役職で、律令政治下では令外官
     あたった。 歴史上4名が任命されているが、いずれも
     藤原氏出身である。 天皇の最高顧問天皇を擁護して
     政務の機要を掌握する大臣に匹敵する官職であったが、
     常設の官職ではなく、その職掌はその時々に応じて全く
     違うものであった。

  ※左大臣・右大臣」
     左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の
     一つ。
      右大臣(うだいじん)は、律令制で、太政大臣左大臣
     次に位し、政務を統轄した。
      太政大臣左大臣、右大臣を総称して「三公」という。
       ⇒ 後の『源平藤橘(日本史上、一族が繁栄した源氏・
         平氏藤原氏橘氏の四氏の称)へとつながっていく。
          ※謡曲鞍馬天狗(1480頃)
           「そもそも武略の誉の道、源平藤橘、四家に
            もとりわき」

  ※「難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)への
   遷都」
     摂津国(現在の大阪府北部~兵庫県南東部)難波にあった
     飛鳥時代の宮。「乙巳の変(645年)」の後、中大兄皇子
     によって企画され、652年に完成し、孝徳天皇が遷都した。

 

大化の改新の第三段階】は次回に・・・

 

 

        ~ つづく ~

 

 

『白村江の戦』

【背景】


① 朝鮮半島と中国大陸の情勢

  6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗百済新羅の三国
  鼎立(ていりつ)していたが、新羅は二国に圧迫される存在で
  あった。

  倭国は、半島南部に領有する任那(みまな)を通じて影響力を
  持っていたことが『日本書紀』の記録から知られている。
   『宋書』では「弁辰(べんしん、弁韓ともいう)」が消えて
  438年条に「任那」が見られ、451年条には「任那加羅(から)」
  と2国が併記されていることから、倭国が「任那加羅」と関係が
  深いことを示している。
   「任那加羅」は、562年以前に新羅に滅ぼされた。
   (※加羅(から)」は「からす」に通じる暗号神武天皇の祖で
    ある日向族も「加羅(から)」から「やたがらす」に導かれて
    日本に渡ったとの伝承もあり。)

  475年には百済高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。
  当時の百済倭国と関係が深く倭国朝廷から派遣された重臣
  駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて、度々倭国から
  援軍を送られている。

  一方、581年に建国された「隋(ずい)」は、国内の反乱で618年には
  「煬帝」が殺害されて滅んだ。
   そして新たに建国されたは、628年に国内を統一した。
  唐は二代「太宗・高宗」の時に高句麗へ3度(644年、661年、667年)に
  渡って侵攻を重ね(唐の高句麗出兵)征服することになる。

  新羅は、627年に百済から攻められた際に、唐に援助を求めたが、
  この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし、高句麗
  百済が、唐と敵対したことで、新羅冊封国として支援する
  情勢となった。
  (大国「唐」に喧嘩を売った「百済」「高句麗」は無謀のように
   思える。一方、「唐」に援助を求めた「新羅」は納得するものが・・・
   これは筆者の感想であるが・・・)

  百済は、654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、
  百済義慈王百済31代、最後の王)」は飢饉対策をとらず、
  655年2月に皇太子の「扶余隆」のために宮殿を修理するなど
  退廃していた。(日本書紀にも記録あり)
   このような百済の情勢について、はすでに643年9月には
  防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた。
   659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、倭国が送った遣唐使
  洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した。

 

② 倭国の情勢

  この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化の改新最中倭国内部でも
  警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、
  唐が倭国から離れた高句麗ではなく、伝統的な友好国である百済
  海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国外交政策
  ともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で
  二者択一を迫られることになる。

 


白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)】

  白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に
  朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、
  倭国(日本)・百済遺民の連合軍」と、「唐・新羅連合軍」との戦争の
  ことである。
   戦況は明白だった。
   「唐・新羅連合軍」は、統率のとれた軍隊で、しかも「唐」は一国だけでも、
  当時の東アジアでは最大の大国だった。その大国「唐」に対し、
  倭国は地方の豪族たちが「力任せ(精神論)」で戦いに挑んだ
  (「第二次世界大戦」で大国アメリカに、武士道精神で戦いに
   挑んだようなもの=歴史繰り返された)
 
  戦いの結果は、倭国百済遺民の連合軍」の大敗となった。
  白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および
  亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、
  やっとのことで帰国した。


  ※白村江の戦いでの敗北は、モンゴル帝国との元寇と、アメリカ合衆国
   などの連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAP)による外国占領を
   招いた第二次世界大戦」と並び、日本列島が海外勢力の占領下に
   入る危険性が非常に高まった戦争であった。
    この敗戦により、倭国は日本列島の領土は奪われなかったものの、
   朝鮮半島の領地・権益を失い、外交政策・国防体制・政治体制など
   統治システムの基礎部分を根本的に変革する必要に迫られた。
    唐との友好関係樹立も模索されるとともに、急速に国家体制が
   整備・改革され、「天智天皇」の時代には近江令法令群、
   「天武天皇」の代には、最初の律令法とされる「飛鳥浄御原令」の
   制定が命じられるなど、律令国家の建設が急いで進み、
   倭国「日本」へ国号を変えた
    「白村江の敗戦」は倭国内部の危機感を醸成し、日本という
   新しい国家の体制の建設をもたらしたと考えられている。


  ※ここで、昭和天皇の逸話』を紹介する。
   1945年(昭和20年)8月に、日本が「ポツダム宣言」を受諾し
   (日本の降伏による第二次世界大戦終結)、白村江の戦いから
   1282年後に対外戦争での敗北を再び経験した。
    そして、戦勝国であるアメリカの様々な制度を導入したが、
   終戦直後の翌1946年(昭和21年)8月に、当時の「昭和天皇」は、
  「朝鮮半島に於ける敗戦の後、国内体制整備の為、天智天皇
   大化の改新を断行され、その際、思い切った唐制の採用があった。
   これを範として今後大いに努力してもらいたし。」と語り、
  再び敗戦国の国民となった日本人を励ますようにした。

 

次回は、【白村江の戦い】の大敗を教訓に、『大化の改新』から国家として
日本が変貌を遂げる『歴史的ドラマ』へと迫っていく・・・

 


           ~ つづく ~

神武天皇と徐福(渡来人)

神武天皇の別名】

 ・「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)

 ・「神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)」

 ・「神日本磐余彦天皇神武天皇)」の諱(いみな)は、
  「彦火火出見(ひこほほでみ)」。

  ※神武天皇の別名「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・ノ・ミコト」 は、
   サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」の意味で、
   エフライム族の北朝イスラエル王国再興であるとも言われている。

 

神武天皇の誕生】

 「彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)」の
 第四子。母は「玉依姫(たまよりびめ)」。
 「庚午(かのえうま)年1月1日(庚辰(かのえたつ)の日)」に、
 日向国(ひゅうがのくに)で誕生。15歳で立太子(りったいし)。
 「吾平津媛(あひらつひめ)」を妃とし、「手研耳命(たぎしみみのみこ)」を
 得た。

 

神武天皇の東征と即位】

 「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」は日向国(ひゅうがのくに、
 現在の宮崎県)にあった。

   ~ 以下 中略 ~

 辛酉年、「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」は、
 橿原宮(かしはらのみや)」ではじめて天皇位につき(神武天皇
 「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称された。
 伝承上、これが朝廷および皇室の起源で、日本の建国とされる。

  ※始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」
    「神武(じんむ)天皇」および「崇神(すじん)天皇」の敬称。
    初めて建設された国、あるいは革新された国を統治してゆく天皇
    さしていう。『日本書紀』の「神武紀」には、
    「始馭天下之天皇」と記し、「崇神紀」には、
    「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と記しており、
    それぞれ神武天皇」、「崇神天皇をさしている。

    『日本書紀』に、
    神武天皇は「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」、
    崇神天皇は「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と記され、
    文字は違うが読みは通じ、ともに「初めて国を治めた天皇を意味する。
     建国の祖という神武の統治は大和(やまと)の範囲にとどまり、
    崇神は大和の四周を平定し、内治の充実に尽くしたと伝えられる。
    そこで崇神を実質的な建国者とみる立場から、本来、
    崇神の敬称であったこの称が、のちに、大和政権の起源を古くするために
    造作(ぞうさく)された神武にも及ぼされて、同じ称呼になったのでは
    ないかとする説もある。
   
     ※籠(この)神社の海部宮司によれば、「多次元同時存在の法則」により、
      「神武」=「崇神」(同一人物)という暗号が『記紀』には隠されている
      とのこと。

     ※建国記念日
      「2月11日」は、『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)で、
      初代天皇とされる神武天皇(じんむてんのう)の即位日。
      「旧暦の紀元前660年1月1日」と日本書紀に記載があり、
      その即位月日を新暦に換算した日付となる。
 


玉依姫(たまよりひめ)】

  玉依姫(たまよりひめ)は、豊玉姫(とよたまひめ)の妹。
  そして、玉依姫(たまよりひめ)は、自分の子ではない
  「豊玉姫(とよたまひめ)」の子を、姉の代わりに養育し、
  自分が養育した姉の子、「うがやふきあへず」が男子として成長し、
  玉依姫(たまよりひめ)を妻に選んだ。
   そして、玉依姫(たまよりひめ)と「うがやふきあへず」の間に生まれた子が、
  初代天皇である「神武天皇となった。

   ※豊玉姫(とよたまひめ)、豊姫(とよひめ)、卑弥呼(ひみこ)には
    隠された暗号があると、筆者は考える。(現在調査中)

  「たまよりびめ(玉依毘売、古事記)」または
  「たまよりひめ(玉依姫日本書紀)」は、日本神話に登場する女神。
  神武天皇(初代天皇)の母として知られる。
   名義は「神霊が依り憑く巫女」と考えられる。
  「大物主神(おおものぬしのかみ)」の妻である
  「活玉依毘売(いくたまよりひめ)」や、
  『山城国風土記(やましろこくふうどき)』逸文に見える
  「玉依日売(たまよりびめ)」と同じく、この名前を持つ者は
  神と通婚する巫女的神性を持つとされる。

 


鵜葺草葺不合命、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)】

  別名、「彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこ             と)」。
  地神五代の五代目、日向三代の三代目。
  伯母の「玉依姫(たまよりびめ)」との間に彦五瀬命稲飯命三毛入野命
  彦火火出見尊神武天皇)を得た。
  『日本書紀』によれば、「鸕鶿草葺不合尊」が誕生した産屋は
  「全て鸕鶿(う)の羽を草(かや)としてふいたが、屋根の頂上部分を、
  いまだふき合わせないうちに生まれ、草(かや)につつまれ波瀲(なぎさ)に
  すてられた。」これにより、母親の「豊玉姫(とよたまひめ)」が
  「彦波瀲武鸕鶿草葺不合(ひこなぎさたけうがやふきあえず)」と名付けた。
   そして、『富士宮下文書』などの古文書によると、「うがやふきあえずのみこ           と」の、「うがやふきあえず」は「ウガヤフキアエズ王朝七二代」であり、
     その王統を「ウガヤフジアワス」と呼んでいる。

   ※富士宮下文書』
      秦の始皇帝の時代に、東方に不老長寿の霊薬を求めて出航したとされる徐                        福は、富士高天原に着いて、そこで口承や神代記録を編集して漢字に                              書き 直し、『富士宮下文書』の原型を書いたとされる。
      この記録によれば・・・

     ◆第7代・「孝霊(こうれい)天皇」の時代に、徐福は富士山に渡来した。
      (秦の始皇帝と同時代人なので紀元前3世紀のこと)

     ◆武内宿禰(たけうちのすくね)が、徐福の来朝を聞いて喜び、
      富士山本宮七廟惣名・阿祖山大神宮に挨拶にやってきて、
      のちに熱心な「徐福学」の信奉者となった。
      (この記述から、徐福と武内宿禰はおそらく同時代人、かつ同胞で
      あったことが分かる)

     ◆徐福は神国日本の太古の歴史を書き残す事業に着手して、
      神々の子孫たちに師事し、その口碑、口談、伝言、および各家に
      伝わる実記録や系図を集大成して『十二史談』を作った。

     ◆紀元前3世紀に漂着した徐福の一行は、駿河の国で「富士王朝」と
      呼ばれた小国を建国するが、その痕跡は富士山の噴火によりすべて                                 失われた。
      (同じ頃、関西には大和王朝、
       九州には日向族によるウガヤフキアエズ王朝があった)

      ※ここでいう「大和王朝」は「邪馬台国卑弥呼の時代)」。
       また、「富士王朝」の調査を進めていた研究チームは、
       樹海で有名な青木が原(溶岩層のさらに下)にあるのでは・・・と
       いうことで、発掘調査の準備を進めていた段階で、富士山が世界遺産
       登録されたため、調査がとん挫した経緯もある(タイミングが                                         良すぎ?)

     ◆その後、「富士王朝」は500年近く繁栄して、「大和王朝」や                                          「九州王朝」と激しい対立を繰り返し、ついに紀元後2世紀頃には                                  政権を奪うことに成功した。
      これがのちに倭国大乱』と呼ばれる。
       その結果、即位したのが第10代・「崇神(すじん)天皇」である。
      なお、「崇神天皇」は徐福一族が呼び寄せた政治家であり、
      第12代・「景行(けいこう)天皇」は職業軍人である。
      (神武~綏靖(すいぜい)までは九州王朝、欠史八代とは                                                   ナガスネヒコ政権、または徐福の子孫を指す)

     ◆「富士王朝」側に属した人物として、下記の人名が挙げられる。
        崇神天皇景行天皇ヤマトタケル・・・・(いわゆる騎馬民族
        武内宿禰神功皇后応神天皇・・・・(いわゆる海部(あまべ)族)

       ※つまり、筆者のおとぎ話では、これらの人物こそ、
        渡来人=秦氏=『失われたユダヤの10支族』であり、
        騎馬民族と海人族による連立政権が誕生して、
        日本の歴史に深く関与してきた。

 

次回は、『倭国大乱』にみられるように、小国の連合であった倭国が、
『白村江の戦』での大敗から中央集権国家へと変化していく様子に迫っていく。

 


       ~ つづく ~

 

『やまと朝廷』と『神武天皇』

大和朝廷ヤマト王権)】 ※ウィキペディアより引用。

ヤマト王権(ヤマトおうけん)とは、3世紀から始まる古墳時代に「王」や
「大王」(おおきみ)などと呼称された、倭国の首長を中心として、
いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織である。
今の奈良盆地を中心とする大和地方の国が、まわりの国を従えたことから
こう呼ばれる。
 旧来より一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、
歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは、
必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、
その歴史観を反映する用語としてヤマト王権の語等が用いられはじめた。

呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」
「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている。
 古墳時代の後、飛鳥時代での天皇を中心とした日本国の中央集権組織のことは、
「朝廷」と表現するのが一般的な表現である。

「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の古事記』や
日本書紀や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、
「大和」の漢字表記はなされておらず、倭(ヤマト)として表記されている。
三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。
 その後701年の大宝律令施行により、国名(郡・里(後の郷)名も)は
二文字とすることになって大倭となり、「橘諸兄(たちばな の もろえ)」政権
開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、
恭仁京」(くにきょう/くにのみやこ 現在の京都府木津川市加茂地区)遷都に
先立って大養徳となったが(地名のみならずウジ名も)、
藤原仲麻呂」権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)(前年に、
恭仁京完全廃棄(9月に大極殿を山背国分寺に施入))に大倭に戻り、
そして天平宝字元年(757年)(正月(改元前)に諸兄死去)の後半頃に、
大和へと変化していく。

 

邪馬台国連合と纒向(まきむく)遺跡】

魏志倭人伝は、3世紀前半に邪馬台国卑弥呼が現れ、
国々(ここでいう国とは、中国語の国邑、すなわち土塁などで囲われた都市国家的な
自治共同体のことであろう)は、卑弥呼を「共立」して倭の女王とし、
それによって争乱は収まって30国ほどの小国連合が生まれた、とし、
親魏倭王」印を授与したことを記している。
 邪馬台国には、大人と下戸の身分差や刑罰、租税の制もあり、
九州北部にあったと考えられる伊都国には、「一大率」という監察官的な役人が
置かれるなど、統治組織もある程度整っていたことが分かる。
 編年研究の進んだ今日では、古墳の成立時期は3世紀末に遡るとされているため、
卑弥呼を宗主とする小国連合(邪馬台国連合)が、ヤマトを拠点とする「ヤマト政権」
ないしヤマト王権」につながる可能性が高くなったとの指摘もある。

 

【神武東征と建国】

「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」日向国(ひゅうがのくに、現在の宮崎県)に
あったが、甲寅年、45歳のときに「饒速日(にぎはやひ、物部氏の遠祖)」が
東方の美しい国に天下った話を聞いた。
「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」は、自らの兄や子に東へ遷ろうとすすめて
その地(奈良盆地)へ東征(神武東征)を開始した。
「速吸の門(はやすいのと、豊予海峡の古称)」では、
国神である珍彦(うずひこ、倭国造の祖)に出会い、
彼に椎根津彦(しいねつひこ)という名を与えて道案内にした。
筑紫国菟狭(うさ)の一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)、
同国崗水門(おかのみなと、福岡県北部、遠賀川河口付近の古地名)を経て、
安芸国(あきのくに、広島県広島市安芸区)の埃宮(えのみや)、
吉備国(きびのくに、古代日本の地方国家。 現在の岡山県全域と広島県東部と
香川県島嶼部および兵庫県西部にまたがり、筑紫、出雲、大和などと並ぶ有力な
勢力の一つ)の高島宮(たかしまのみや)に着いた。
 「磐余彦(いわれびこ)」は宿敵「長髄彦(ながすねひこ)」と戦い、
饒速日命(にぎはやひのみこと)」は、その主君であった「長髄彦(ながすねひこ)」を殺して帰順した。
 辛酉年、「磐余彦尊(いわれびこのみこと)」は、「橿原宮(かしはらのみや)」で
はじめて天皇位につき(神武天皇
始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称された。
伝承上、これが朝廷および皇室の起源で、日本の建国とされる。
(詳しくは次回のブログで。)

 


次回は、倭(ヤマト)と邪馬台国神武天皇に隠された“卑弥呼”の暗号に迫っていく。

 

 

        ~ つづく ~

造化三神と『父と子と聖霊』           ~ 神道に隠された『イエス』の暗号

過去のブログ記事にもあるように、『4大文明』が事実に基づくものではなく、
日本の歴史教育は『ねつ造』そのものであると言っても、過言ではない。

 ここで、簡単におさらいしておくと、

歴史とは?
  英語で「History」=「His(彼の=勝者の)」+「Story(物語)」


ウィキペディアによる歴史年代比較

   縄文時代(16,000±100年前~約2,300年前)   
   シュメール文明(紀元前8000年頃~紀元前2000年頃)   
   長江文明(紀元前14000年ごろ~紀元前1000年頃)   

   黄河文明(紀元前7000年?~紀元前5000年?)   
   古代イスラエル王国(紀元前11世紀~紀元前8世紀)
   
過去の文明を比較すると、縄文時代が最も古く、そして、
いかに長く続いていたか(10,0000年以上続いている、皇紀よりも遥かに永い)確認
できると思う。この縄文時代を生きた縄文人が、野蛮で文字も持たなかった? 
そう思わされてきたのには理由があった。
 その秘密として、この日本に伝わる神道』とキリストとの関係
全ての宗教の源である『神道』の知られざる真実に迫っていく。

 


神道』の根源になる“造化三神(三柱)”に隠された“イエス”の暗号


  ① 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
     旧約聖書では、『主神』をとって、“アヌンナキ”が
     『なる』という唯一神を名乗り、やがて、
     ユダヤ教では“ヤハウェ”(日本語では“エホバ”、
     意味は“わが主”)と変化していった。


  ② 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
     皇祖神は、7世紀以前は『天照大神』ではなく、
     高御産巣日神だった。詳しく言うと、
     皇祖神が『天照大神』になったのは、7世紀に持統天皇(女帝)』
     治めるようになってからで、女帝の正当性を国民に認知させる目的も
     あって、『記紀』では皇祖神も女神『『天照大神』に変えられたと
     いう説が有力視されている。

      日本書紀では、「皇祖たかみむすひ」と表記されている事実もある。
       ⇒ 皇祖神を『天照大神』に変えた正当性とともに、
         変更前の皇祖神についても、記録を残していた。
         (神代下第弾九段「天孫降臨」条

     『たかみむすひ』は、高天原(聖書で言う天国)を仕切り、
     天孫降臨を導く最高神としても書かれている。
      また、今日の天皇陛下も、“月次祭”のとき、宮中の“八神殿”で
     『たかみむすひ』をはじめ『宮中八神』にご加護の感謝を述べる儀式を
     行うが、その“八神”に対する祈りに捧げられているのは、
     『たかみむすひ』であって、『天照大神』ではない
      また、“むすひ”には「霊力を生じる」の意味はあり、
     さらにヘブライ語で解釈すると、「霊(油)を注ぐ」という意味の
     “ムシュハ”が語源とも。そして、古代イスラエルでは、
     「油を注がれたもの」=「マシャハ(意味はメシヤ、救世主)」
      
     そして、神道の間では、高御産巣日神』は『天之御中主神』の
     “御子”と理解されている。

     以上をまとめると、『高御産巣日神』はキリスト教でいう「神の御子」に
     相当する。さらに、「たかみむすひ」ヘブライ語にすると、
     「タカン・マシャラ」となり、「メシヤなる仲介者」の意味を持つ。


  ③ 神産巣日神(かみむすひのかみ)
     神道では、高天原に満ち、「地上の神々に息づく霊」として
     理解されている。⇒キリスト教で言う聖霊
     「かみむすひ」をヘブライ語で解釈すると、
     「カム・ムシャハ」となり、「霊を注ぐ始源者」の意味になる。

 

だから、神道が先か、旧約聖書が先か、というのは、ニワトリかタマゴかの
議論になるのだが、旧約聖書が書かれた時期は、古代シスラエル王国が南北に
分裂した後、南ユダの2支族が“バビロン捕囚”になったときに、
バビロニア国王の管理下で編纂されたものであるから、
縄文時代から続く日本の神道の歴史の方が、はるかに古いことは理解できると思う。

さらに、イスラエルの祖ヤコブは、もともとシュメールにいて、
その子孫たちが、エジプトからモーセに率いられて“カナン”に移住し、
古代シスラエル王国を建国した流れからみても、
旧約聖書(および、旧約聖書を基盤とするキリスト教ユダヤ教も)は、
シュメール王国(海を渡った縄文人含む)~エジプト~古代イスラエル王国~
バビロニア王国(捕囚)の影響を全て受けて(ごちゃ混ぜのように混ざりあって)
編纂された背景がうかがえる。

 


次回は、大和朝廷に切り込んでいく・・・

 


      ~ つづく ~