ユダヤ人の帰還と“ヘレニズム”

ユダヤ人の帰還とソロモン神殿再建】
  BC539年、バビロンがペルシァの王クロスによって倒される。
  バビロンの捕囚となっていた南ユダ王国の“ユダヤ人”は、
  捕囚の民に与えられていた故国帰還の許可(前538年)
  促されて、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアを先導として、
  帰国(帰還)した。
   帰国した人々は、早速、ソロモン神殿再建に着手し、
  基礎を据えたが、周囲の住民の反対とペルシァ王への
  訴状によって、中断される。
   しかし預言者のハガイとゼカリヤの励ましにより、
  BC515年に第二神殿は再建された。
   それはソロモンの神殿が破壊されてからほぼ70年後の
  ことであった。しかし城壁の修復は妨害のため行われな
  かった。
   やがてBC458年に、律法学者であり祭司でもあったエズラ
  エルサレムに着き、律法を解き明かした(エズラ7章)。
  その13年後のBC445年に、ネヘミヤが総督の権限を
  与えられて帰国し、52日で城壁を修理し、エズラと協力して
  国内の政治改革と宗教改革を行い、厳格な律法遵守による
  神権政治を開始した。
   しかしユダヤ人全員が帰還した訳ではなく、ペルシャ
  残ったり、他の地域に移住したユダヤ人もいた。
   こうして世界各地にユダヤ人が住み始め、イスラエル
  住むユダヤ人とイスラエル外(離散の地/ディアスポラ)に
  住むユダヤ人の2種類が、各々の地で独自の発展を遂げて
  いった。


ヘレニズムの影響】
  こうして多様化していったユダヤ人にとって、大きな転機と
  なったのが、アレクサンダー大王の東方遠征。
   これによってギリシャ文化とオリエントが融合した“ヘレニ
  ズム”という考えがうまれたのだが、この文化圏では人種も
  生まれた地も宗教も全く違う何百万人が混在していた。
  そんな多民語族・多文化を抱えるヘレニズム文化圏では、
  ギリシャ的教育を受け、共通語であったギリシャ語を話せば、
  ギリシャ人として認められた。これは、生まれた土地や血統に
  よって決まっていた従来の定義法とは全く違う革新的な民族観
  だった。
   これによって、エジプト人ペルシャ人、ユダヤ人であっても
  同時にギリシャ人でもいれるという、2つの民族的アイデンティ
  ティーを持つ形が可能となった。
   これは現在欧米では一般的な他重国籍や「…系~人」という
  表現が発祥した瞬間でもあった。
   ヘレニズムによって民族についての新定義ができると、イスラ
  エルを中心に、ヘレニズム文化圏に居たユダヤ人たちは、他の
  民族と同じようにギリシャ人になるか否かを考えると同時に、
  自らの定義についても再考しなければならなくなった。
   ギリシャ人とはギリシャ文化を受け入れた人の事。この新しい
  ギリシャ式定義法を用いると、ユダヤ人とは「ユダヤ文化を受け
  入れた人」となる。多神教社会であった古代を生きる彼らに
  とって、自分たちのユダヤ文化とは『一神教』であるユダヤ教
  事だった。
   こうしてユダ王国民でもその末裔という血統とも違う、
  「ユダヤ教を信じる者=ユダヤ」という新しい民族の定義が
  できた。(現在のイスラエルという国家は、“ユダ国”がふさわ
  しいかも・・・)


  “ユダヤ人”の定義が変遷していく不安定な中、世界情勢も
  “ローマ帝国”の時代を迎えようとしていた。
   やがて、この混乱期に“イスラエルのメシヤ(救世主)”が
  産声を上げる。

 


【白人支配の時代へ】
  そして、これまで(シュメール~バビロニアペルシャ時代)
  世界を支配してきた“黄人”に代わって、“白人”が支配する
  ギリシャローマ帝国へと移っていく。
   もともと、白人は“レプティリアン(アヌンナキ)”が奴隷頭
  として造ったもので、その好戦的(弱肉強食)な性格と狡猾な
  知恵が姿を見せ始める。

  彼ら白人支配者の考え方は、
  『“白”=穢れ(けがれ)のない無垢で、高貴なもの
   逆に有色人種は『穢れた存在(家畜・鬼畜同然)』という
  差別意識へと発展していった。

 


         ~ つづく ~