バビロニア王国とバビロン捕囚

バビロニアとは?(ウィキペディアより引用)

 

【古バビロニア時代】
  ハンムラビ王時代のバビロン第1王朝。
  ウル第3王朝の滅亡(前2004年)から、
  バビロン第1王朝の滅亡(前1595年)までの時代は
  古バビロニア時代と呼ばれている。
   更に、群雄割拠の時代(前期)と、バビロンによる
  統一の時代(後期)に二区分し、前期を
  イシン・ラルサ時代、後期をバビロン統一王朝時代、
  またはハンムラビ王国時代と区分するのが一般的。
   ハンムラビは征服事業と並行して、戦乱で荒廃した運河網を
  整備拡充するとともに、ハンムラビ法典と呼ばれる法典碑を
  作らせた。このハンムラビ法典は、商業、農業、犯罪、結婚、
  相続など、社会経済の多様な領域に対する「条文」を含んで
  おり、「目には目を、歯には歯を」の同害復讐原理でも名高い。

   ※クリスマスの起源
     学者の中には、ハンムラビと『旧約聖書』の
     『創世記』に登場するバビロンの王ニムロデ
     結びつけるものもいる。
      ハンムラビの名は「偉大なるハム」とも解釈可能で
     ある。ニムロデはノアの三男、ハムの孫にあたり、
     バベルの塔の建設者とされる。
      また、ウィキペディアによれば、
     「ニムロドの誕生日12月25日の日曜日とされ、それは
     バビロニアの大安息日でもあるとされる。
     したがって、クリスマスはイエスを祝うだけではなく、
     ニムロドの生誕を祝う日でもあるとされる。


【中期バビロニア時代】
  ヒッタイト人がバビロンを寇掠した後、アッシリアが帝国的な
  発展を遂げるまでの前1000年頃までの中間期を中期バビロニア
  時代と言う。この時代区分はまた、メソポタミアにおける後期
  青銅器時代に対応する。
   この時代にはメソポタミア北部のアッシリアや、
  その周辺域にあるヒッタイト、ミタンニ、エジプト、エラム
  勢力を拡張し、互いに争いつつ盛衰を繰り返した。
  これらの諸国の間に密接な関係が構築されていったことから、
  「国際化の時代」ともされる。

  
アッシリア帝国の時代】
  バビロニアアッシリアはおよそ100年余りの間均衡していたが、
  前9世紀後半にはアッシリアが強大化する一方で、バビロニア
  混乱し、南部と東部におけるアラム人やカルデア人の諸部族の
  侵入を抑え込むことができなかった。この王朝の末期の王、
  ナブー・ナツィル(ナボナサル、在位:747年-734年)の治世
  から『バビロニア年代誌』がバビロニアの重要な政治的事件を
  記録し始める。この王の治世のすぐ後には、アッシリア
  王ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを征服し、
  アッシリアによるバビロニア支配がはじまった。


新バビロニアカルデア)】
  アッシュールバニパルの没後、アッシリアの政局は混乱に
  陥ったらしく短期間に何人もの王が交代する事態となった。
  この混乱に乗じて「海の国」の首長とされるカルデア人
  ナボポラッサルがバビロニアの支配権を握りアッシリア
  支配から離脱した。
   彼が打ち立てた王朝は新バビロニア(バビロン第11王朝)、
  またはカルデア王国と呼ばれる。
  そして、全メソポタミアがバビロンの支配の下に入った。
   更にナボポラッサルは王太子ネブカドネザル2世に、
  アッシリア残党を支援したエジプト(第26王朝)を攻撃させ、
  前605年にカルケミシュの戦いでエジプトを破り、シリアを
  支配下に置くことに成功した。
   翌年即位したネブカドネザル2世は、旧約聖書にある
  バビロン捕囚の実行者としても有名である。
  彼は前597年にエルサレムを占領すると、
  その王ヨヤキン他有力者たちをバビロンへと連行し、
  ゼデキヤを王位につけた。更に前586年にはゼデキヤが反乱を
  起こしたため、これを討伐して再びエルサレムを占領し、
  ゼデキヤとユダの人々を連行した。この結果ユダ王国は滅亡した。

 

 

バビロン捕囚とは?(ウィキペディアより引用)

 

【概要】
  ネブカドネザルユダ王国(南王国)の首都エルサレムを攻略した。
  ユダの他の都市も征服した。
  ネブカドネザルは、生き残った人々の大半をバビロンに強制
  移住させ、人々は捕囚にされる。 最初の捕囚は西暦前597年に、
  その後、西暦前587年または586年、西暦前582年または
  581年にも、計3回行われたとされる。 流刑の後、ユダヤ人は
  アケメネス朝ペルシャの初代の王キュロス2世によって解放され、
  故国に戻ってエルサレムで神殿を建て直すことを許される。


ユダヤ人とバビロニア文化】
  すぐに故国に帰れるというユダヤ人の希望は幻と消え、
  長期に渡ってバビロニアに居住することになったユダヤ人は、
  現地の文化の著しい影響を受けた。
   1、2世代を経るうちに、捕囚民の中にはバビロニア風の
  名前を持つ者が数多く現れた。
   エホヤキン王の孫ゼルバベル(「バビロンの種」の意)の
  例に見られる如く、王族の間ですらその傾向は顕著であった。
  そして文字文化にも大きな影響が齎された。
  旧来の古代ヘブル文字に変わってアラム文字草書体が使用される
  ようになり、文学にもバビロニア文学の影響が見られるように
  なった。
   一方でバビロンのユダヤ人たちは、バビロニアの圧倒的な
  社会や宗教に囲まれる葛藤の中で、それまでの民族の歩みや
  民族の宗教の在り方を徹底的に再考させられることになった。
  宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の
  代わりに律法(トーラー)を心のよりどころとするようになり、
  神殿宗教であるだけではなく、律法を重んじる宗教としての
  ユダヤ教を確立することになった。
    ⇒ パリサイ派(後の『ラビを中心とするユダヤ教)の起源。
      また、律法(トーラー)の巻物が「トーラーの巻」
      そう、日本に伝わって「とらの巻」になった。

  また、この時期にヤハウェの再理解が行われ、神ヤハウェ
  ユダヤ民族の神であるだけでなく、この世界を創造した神であり
  唯一神である、と理解されるようになった。(解釈の湾曲?)
   バビロニアの神話に対抗するため、旧約聖書天地創造などの
  物語も、旧約聖書学で「第2イザヤ」「祭司記者」などと呼ばれて
  いる宗教者たちにより記述されていった
   後のローマ帝国以降のディアスポラの中でも失われなかった
  イスラエル民族(というより、ユダの2支族=『自称ユダヤ人』)の
  アイデンティティはこうしてバビロン捕囚をきっかけとして確立され
  ている。
   ※旧約聖書は、バビロン捕囚時代に編纂されたものであり、
    「バビロニア神話」の影響も受けている。

 

 


         ~ つづく ~