平安時代の貴族と武士の誕生

平安時代は、華やかな貴族文化が花開いた時代でもあった。

 

【貴族】

  具体的な呼び名が登場するのは、701年に制定された「大宝律令
  からだった。五位までの官位のものたちを「貴」という言葉で
  読んだことから「貴族」という概念が誕生したと考えられている。

  平安時代には遣唐使が廃止され、日本古来の美的感覚をもっと
  盛り上げようという気運が高まっていた。
   そうした背景から、国風文化が興り、それは住居など建築物にも
  影響していった。貴族の中でも特に位の高いものたちは、
  寝殿造り」という特別な屋敷に住んでいた。
   南向きの縁起や日当たりの良い好立地に寝殿を配置し、家長と
  なる男性が主に暮らしていた。東対、西対、北対と小振りな建物を
  行き来するために渡り廊下が敷かれ、月宮釣りをするための
  釣殿(今でいうところのバルコニー)と呼ばれるものが設置されて
  いた。寝殿造りは現代においても文化遺産として多数残されている。

  平安時代の貴族というのは、いまでいうところの政治家や公務員の
  ようなもので、お役所である宮中に勤務し、国政に関わることや
  事務的な雑務をしていた。
   ただし、現代の政治家や公務員とは違って、当時の貴族たちは
  それほど仕事熱心とは言えなかったようだ。(午前7時ごろに
  出勤し、およそ4時間程度で終業)
   そして自宅に戻ってお昼を食べて、ゆっくりと夕飯まで待ち、
  食べて眠くなったら寝てしまう…そんな生活を送っていた。
   そして、この『空き時間(今風に言うと、アフターファイブ)』
  こそが、貴族たちが才能を開花させていく貴重な時間でもあった。
  この『空き時間』に和歌を詠んだり、蹴鞠(けまり)を蹴ったり、
  月見をしたりと、一見遊んでいるように見えて実は自分磨きを
  していた(源氏物語枕草子などの芸術文学などが、花開いて
  いった)。

  ≪代表的な人物≫

    紫式部(むらさきしきぶ)
     恋愛小説の決定版とも言える『源氏物語』の作者。

    清少納言(せいしょうなごん)
     随筆として名高い『枕草子』の作者。

    藤原道長(ふじわらのみちなが)
     大きな権力を持った「藤原氏」の中で、もっとも栄華を
     極めた人物。
      道長は右大臣、左大臣を経て、天皇の生母の勧めもあって
     摂政にまで上り詰めた。(道長は、自分の娘を次々と天皇
     后として差し出した=「政略結婚」によって成り上がった
     人物でもあった)
      だが、藤原氏が権力を独占する陰で、衰退していった(表
     向き)のが「橘(たちばな)氏」だった。

    橘(たちばな)氏
     橘氏は、「縣犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)」が、
     「橘宿禰(たちばなのすくね)」の氏姓を賜り「橘三千代」を
     名乗ったところから始まる。
      三千代と「敏達(びだつ)天皇」の後裔である
     「美努王(みぬおう)」の間に生まれた子、
     「葛城王(かずらきのおおきみ)が臣籍降下した
     橘諸兄(たちばなのもろえ)」は、橘氏の中で最も有名
     人物である(左大臣まで昇進)。
      さらに諸兄の後も、諸兄の子(奈良麻呂 ならまろ)の
     孫娘(嘉智子 かちこ)が嵯峨天皇の「檀林(だんりん)皇后」
     になると、橘氏は再び躍進していった(藤原氏との対立も)。

     ※嵯峨天皇」の子が臣籍降下して誕生したのが「源氏」
      ということは、橘氏は源氏の「祖」でもある。
      
      橘氏藤原氏との政争(表向き)で衰退し、朝廷(表の政治)
      から姿を消した。(筆者の家系の言い伝えでは、「平安」を
      祈願して遷都した『平安京』の名の通り、藤原氏に政治を
      ゆだねて身を引くことが、天皇の意に沿うことと考え、
      橘氏は「橘姓」を捨てて、故郷の「吉備国」に帰郷した。
       このとき、家紋も「橘紋」から「浮線蝶(ふせんちょう)」
      に変えている)

 

【武士】

  平安時代も後期(終盤)になると、「武士」と言われる身分も
  誕生した。
   律令制度が確立され、武力・軍事力を行使するのは「武官」
  仕事だったが、「武士」という専門的先頭集団が生まれたことで
  時代は大きく変化していった。
   はっきりしておかなくてはいけないのが、平安時代までの
  「武官」とそれ以降の「武士」の違いについて。

  「武官」で有名なのが「征夷大将軍」に任命され大きな功績を
  挙げた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」
   彼は朝廷に使える官人であり、あくまでも役人にすぎなかった。
  律令制の中で生まれた(今で言う)公務員であり、蝦夷討伐では
  公的な仕事の一環として武功を挙げた。

  では武官から武士の時代に突入した平安時代末期、武士は、
  どのようにして生まれたのか?
   主に3つの学説が大勢を占めていますが、どれもが正しく、
  どれもが不十分と指摘されている。

  学説①
    地域を封建的に治める大農園主が、武装をした。
     ⇒ かなり有力な学説ではあるが、源氏や平氏といった、
       時代を動かした武士の起源を説明することはできな
       いという指摘もある。

  学説②
    家業として武芸を身につけていった専門的な武装集団があり、
    国家から認定された軍事的な下請け業者が起源とする説。
     ⇒ こちらも有力ではあるが、地方武士に関しては説明が
       つかない。

  学説③
    国衙軍制論と呼ばれるもの。
     平安時代の中期頃から、租税の徴収を朝廷から請け負う
    田堵負名(たとふみょう)という存在があった。
     武士の出現期、彼らは地域の田堵負名の命を与えられて
    いて、徐々に経済的な基盤を作り上げていって、領主とし
    ての体勢を獲得するに至った、という説。


  ≪源氏と平家≫
    なぜ源は「氏」で平は「家」なのか?

    本姓であるとは、皇族が臣籍(天皇の家来・仕える者)に
    下る臣籍降下」にあたって下賜された姓のこと。
     天皇や皇族は姓を持たなかった(戸籍がない)ので、
    臣下となる際に「姓」をつける必要があった。
    源姓を名乗った一族はたいへん多かったため、源家の総体と
    して源氏と呼ばれていた。

    一方平家とは、政権を打ち立てた平清盛とその一族、
    さらには仕えている者たちも含めた政権・軍事の一団
    ことをいう。そのため、平家の中には清盛らに仕えていた
    藤原氏や源氏の武士もいた。つまり、平家とは平氏の中の
    一部でありながら、平氏以外の外部の者も多くいたことに
    なる。これゆえ、平氏+他氏(藤原氏、源氏など)”
    集団を意味する「平家」と呼ばれるようになった。

    「源平の合戦」に至った両者の宿怨とは、このように臣籍に
    下りた氏族であるという、同等の格による強いライバル関係に
    因るところが根底にあったとされている。
     しかし、臣籍降下した皇族は、平氏においては、天皇
    孫以降の代が多かったことから、源氏の方が格上とする見方も
    あった。このことに因る優越感と劣等感のアンバランスさも、
    源平両氏の運命を左右したのではないかとされている。

 

          ~ つづく ~

 

平安京とエルサレム

平安京の名前】

  京都は、桓武天皇(737年~806年)が、780年に平城京(奈良)で即位後、
  784年には長岡京京都盆地の西部)へ遷都、のち10年後の794年には、
  平安京(京都)に2度目の遷都をされて以来、明治維新に至るまで
  1074年におよぶ首都だった。

  京都は、「桓武(かんむ)天皇」により、山城の地に新たな都が
  築かれた時、平安京(へいあんきょう)』と呼ばれていたが、
  これは「遷都の詔(みことのり)」の中に、民衆が新都を讃美して、
  このように唱(とな)えたとある。これは天皇と国家の永遠の平和
  祈願するものであり、一般には京(きょう)または都(みやこ)と
  呼ばれていた。11世紀末からは、平安京にかわる都の地名として、
  京都が使用されるようになった。

  日本書紀によると、わが国は、紀元前660年、初代「神武天皇」即位に
  よる大和の統一国家が成立して以来、常に天皇のもとに国として永く
  続いてきたので、京・都・京都といえば、それはただちに首都
  そのものを指した。 


   ※平安京と琵琶湖は、エルサレムと深いつながりがあった。

    平安京のあった京都の近くには「琵琶湖」がある。
    同様にイスラエルの「エルサレム」から少し北上すると、
    「キネレット湖」と呼ばれる湖がある。
    この湖は日本語ではガリラヤ湖と呼ばれ、
    イエス・キリストが福音を伝えた場所だった。
     このヘブライ語「キネレット」を訳すと、楽器の
    「琵琶」や「竪琴」を意味する。
     つまり、「琵琶湖」=「ガリラヤ湖(キネレット湖)」!

    一方、「エルサレム」は、ヘブライ語に訳すと「エル・シャラーム」
    となり、その意味は「平安の都(京)」
     つまり、『失われた10支族』が遠い故郷(古代イスラエル
    王国)をしのび、その理想郷を求めて日本の地(京都)に、
    「平安京エルサレム)」を遷都した!

 


【花見について】
  
  現在のように、「お花見」が桜を見ることを指すようになったのは
  平安時代のこと。
   万葉集の時代までに詠まれた歌における「花」はで、古今和歌集
  以降のものに出てくる「花」はとなる。実際、万葉集において梅を
  題材にした歌は110首、桜を題材にした歌は43首と梅が桜の
  倍以上になる。

  これは、梅と桜の原産地の違いからくるもので、桜は日本古来の花
  あるのに対して、梅は奈良時代に中国から遣唐使によって伝わったもの。
  そして、遣唐使が廃止されると共に「花」は桜のことを指すように
  なった・・・という経緯がある。

  また、奈良時代を見るお花見というのは、花の美しさを愛でると
  いうよりも神事としての意味合いが強く、厄払いのために行っていたので
  あまり楽しいものではなかったらしい。

  これが平安時代になり、花が「桜」のことを指すようになってから
  変わっていった。
   平安時代の歴史書日本後紀」によれば、嵯峨天皇が812年に催した
  「花宴の節」というものが、桜による「お花見」の起源とされている。
  「嵯峨天皇」は大の桜好きで、地主神社に毎年桜を献上させるほど
  お気に入りだった。

  視点を変えると、奈良時代から平安時代に代わるころ、
  日本の素性(『失われた10支族』の存在など)を隠す目的もあり、
  『うめ(有名な世界的秘密結社のソンボルを暗示)』から、
  『さくら』に変えたという説もあり(下図のシンボル参照。左が有名な
  シンボル、右が「梅干し」入りのおむずび)。
   
   ※「うめ」=「めた」「」の略語を漢字「」にあてたもの。
      縄文人は、人類史上最古の『石工職人』集団であり、
    その縄文人の子孫と大陸から帰還した渡来人(先祖は縄文人)に
    よって造られた国家が『日本』(世界最古の『石工職人(大工)』
    国家)。

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  また、余談であるが、「嵯峨天皇」の子孫を簡単に掲載しておく。

   嵯峨天皇 → 「源融(息子 源氏物語のモデルとも) →  

   吉田茂(吉田家へ養子) → 麻生太郎(孫 現在の副総理大臣)

 

 

        ~ つづく ~

『臣籍降下』と『源平』の誕生

臣籍降下
  
  臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、
  姓(かばね)を与えられて臣下の籍に降りることをいう。
   皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は、
  「臣籍降嫁(しんせきこうか)」とも言った。

  奈良時代の皇統(天皇の血筋)を教訓道鏡による「宇佐八幡宮
  神託事件」)として、平安時代には安定した皇位継承のため、
  多くの皇子をもうけることがよく行われた。
   しかし、実際に皇位継承できる皇子はごく少数に限られ、
  平安前期から中期にかけて、皇位継承の道を閉ざされた皇族が
  多数発生することとなった。また、皇親の中には国家の厚遇に
  かこつけて問題を起こす者もいた。
   これらの皇親に対しても、律令の定めにより一定の所得が
  与えられることで財政を圧迫する要因となったため、皇位継承
  可能性がなくなった皇親たちに姓を与えて、臣籍降下させる
  皇親賜姓(こうしんしせい)」が行われるようになった。

  特に桓武天皇は、一世皇親3名を含む100名余りに対して姓を与えて
  臣籍降下を行った。嵯峨天皇も多くの子女を儲けたが、父の例に
  倣って多くの子女に対して皇親賜姓を行った。
   臣籍降下して一、二代ほどは上流貴族として朝廷での地位を
  保証されたが、実際には三代以降はほとんどが没落して、
  地方に下向、そのまま土着し武士・豪族となるしかなかった。


  ≪与えられる氏姓≫

    臣籍に降下する皇族には、臣下であることを表す氏及び
    姓(かばね)が与えられる。

    『源氏』嵯峨天皇が、814年に自らの皇子3名に皇親賜姓を行い、
    『源氏』を授けたことに始まる。
     これは「魏書」の「源賀伝」に記録がある。
    嵯峨天皇は最終的には皇子・皇女32名を臣籍降下させ、
    源信(げんしん 天台宗の僧侶)、
    源常(みなもとのときわ 左大臣)、
    源融(みなもとのとおる 光源氏のモデルとも)が誕生する。
     また、源潔姫(みなもとのきよひめ 清和天皇の外祖母)は、
    人臣最初の摂政となった藤原良房(ふじわらのよしふさ 左大臣)の
    正室となった。

    一方、平氏は、淳和(じゅんな)天皇の時代の825年に
    桓武(かんむ)天皇第5皇子「葛原親王(かずらわらしんのう)」の
    子女(二世王に相当)に平氏を賜ったことに始まる。
     これは桓武天皇が築いた平安京にちなんだ氏である。

    ※これゆえ、源氏を「清和源氏平氏を「桓武平氏
     呼ぶこともある。

    なお、臣籍降下に際して、王の身位は当然に除かれるとは言え、
    名は改めないのが通常であるが、葛城王(かずらきのおおきみ)から
    「橘諸兄(たちばなのもろえ 後に朝臣(あそん)の姓を賜る)」
    などのように改める事例もある。


  このように『臣籍降下』によって、藤原氏と合わせて、
  後の政治の中枢を担う4大貴族源平藤橘が誕生した。

  この「源平藤橘」は、とくに平安時代から現在に至るまで、
  皇室も含めて、互いの血筋を絶やさぬように「養子縁組」
  「婿養子」「許嫁(いいなずけ)」などを繰り返してきた。
   ⇒ 4大貴族「源平藤橘」の末裔も、皇族も『同族結婚』を
     繰り返してきた閨閥(けいばつ)」である。

  このようにして、皇族を含む、貴族「源平藤橘」の血筋は、
  現在まで受け継がれ、守られてきた。

 

          ~ つづく ~

 

『桃太郎』と吉備王国から朝廷に仕えた『縣犬養一族』

飛鳥時代奈良時代平安時代にかけて、藤原氏とともに天皇を補佐し、
権勢を誇った『橘(たちばな)氏』がいた。
 今回は、その『橘氏』誕生の物語に触れて行く。

 

桃太郎伝説にもなった“温羅(うら)退治”】

  「温羅(うら)一族」は、吉備の外(日本国外)から渡来して
  吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして、「鬼ノ城」
  拠点として一帯を支配した。
   吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うべく、
  「崇神天皇(第10代)」は、「孝霊天皇(第7代)」の子で
  四道将軍日本書紀に登場する皇族の将軍)の1人の
  吉備津彦命(きびつひこのみこと)」を派遣した。
   討伐に際し、「吉備津彦命」は現在の吉備津神社の地に本陣を
  構えた。


  「温羅(うら)一族」

    百済渡来説・加耶渡来説・新羅渡来説など複数の伝承がある。
    「鬼ノ城(きのじょう)」を拠点とした鬼。
    渡来人で空が飛べた、大男で怪力無双だった、大酒飲みだった、
    等の逸話が伝わる。

     ・阿曽媛(あそひめ)=温羅の妻

     ・王丹(おに)=温羅の弟


  吉備津彦命(きびつひこのみこと)」=「桃太郎」

    本名は「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)」。
    第7代孝霊天皇皇子。『日本書紀』では四道将軍に数えられる。

     ・稚武彦命(わかたけひこのみこと)吉備津彦命の弟

     ・犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)、末裔に「犬養毅
       桃太郎の「犬」

     ・楽々森彦命(ささもりひこのみこと)
       「猿田彦」の末裔で、桃太郎の「猿」

     ・留玉臣命(とめたまのみこと)
       鳥飼に優れた家臣で、桃太郎の雉(キジ)

  「きびだんご」

    我が一族の言い伝え(筆者が父から聞いた話)によると、
    「きび」はイネ(陸稲)で縄文時代から自生していたらしい。
     (岡山県北部では、縄文土器からイネの化石が
     発見されている事実=物証がある)

    「きび」の稲穂は「黄金色」で、この「きび」を炊いて、
    「ぎゅっと」握ったのが「きびだんご」。当時の貴重な栄養源だった。

 

    【戦術と討伐】

      スサノオヤマタノオロチを退治するときにとった作戦に学び、
      大酒のみだった「温羅(うら)一族」に「楽々森彦命」一族が、
      宴を盛り上げる芝居(裸踊りなど)を披露し、宴を盛り上げた。
      (猿芝居の語源)
       そして、酔っ払って朦朧となったところを、背後から
      「吉備津彦命」の本体が襲いかかった。(ウラ切りの語源)
      かくして、「吉備津彦命」一行は、「温羅」の首をとり、
      「温羅(うら)」とその弟「王丹(おに)」を討伐(退治)した。

      ※白山神社
        岡山市北区首部(位置)。
        温羅が首をはねられた地という。
        「首村(こうべむら、現・首村)」の地名由来。
        境内には温羅を祀る鬼神首塚が残る。

 

吉備国から朝廷に】

  この「温羅(うら)」とその弟「王丹(おに)」退治の後、
  『犬』のように主君に忠誠を尽くす働きをした、犬養一族の中から、
  とくにヤマト王権から天皇を補佐してきた『縣犬養(あがたのいぬかい)』
  一族が朝廷に仕えるようになる。

   ※『縣(あがた)』
     大化前代、大和政権の直轄領。または国造(くにのみやつこ)の
     支配下の地方組織。

  そして、この一族から誕生した「縣犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)」が
  女性としては異例の出世をし、684年に宿禰(すくね)姓』を賜り、さらに、
  708年11月には、即位直後の元明天皇から宿禰たちばなのすくね)」姓を
  賜った。
   その後、「敏達(びだつ)天皇皇親」である「美努王(みぬおう)」に嫁し、
  「葛城王(かずらきのみこ 後の橘諸兄)」をはじめ、
  佐為王(さいおう 後の橘佐為)、「牟漏女王(むろのおおきみ)」を生む。

   「美努王」と離別した後は、藤原不比等」の後妻となり、
  光明子(後の光明皇后聖武天皇の妃)を生む。 


  また、「藤原不比等」と「橘三千代」の系図は、現在の『今上上皇』の
  直系に当たる。
 
  かくして、藤原氏とともに政治の中枢を担う、4大氏族源平藤橘の中の
  『橘』が誕生した。

 


             ~ つづく ~

『皇位をめぐる最大の危機』

時代は奈良時代
710年に平城京に遷都した後、女性天皇に近づき、
皇位を狙う僧侶が現れ、皇室の最大の危機が訪れる。


聖武(しょうむ)天皇」と「光明(こうみょう)皇后(藤原氏の出自)」の
間には、ついに男子が育たず、皇子がいなくなったことで、
天平10年1月13日(738年2月6日)に、「阿倍内親王」が立太子し、
史上唯一の女性皇太子となった。
その後、天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位し、
孝謙天皇(こうけんてんのう)」(女性天皇)が誕生した。

天平宝字5年(761年)、平城宮改修のために都を一時的に
近江国保良宮(おおみこく ほらのみや)に移した際、
孝謙天皇が病気を患った。このとき、孝謙天皇の傍らで
看病していたのが『道鏡(どうきょう)』であった。
 この看病がきっかけで、孝謙天皇道鏡は“恋仲”になり、
道鏡は朝廷で絶大な権力を持つことになる。

 


道鏡(どうきょう)】

  奈良時代の僧侶。俗姓から、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも
  呼ばれる。弓削氏は弓を製作する弓削部を統率した氏族。
  複数の系統があるが、道鏡の属する系統(弓削連)は、
  物部氏の一族とされる。

   道鏡は、文武天皇4年(700年)に 河内国若江郡(現在の
  大阪府八尾市)に生まれた。法相宗(ほうそうしゅう 唐時代
  創始の大乗仏教)の高僧・義淵(ぎえん)の弟子。
   病気を患った孝謙天皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、
  その寵を受けることとなった。
  763年、慈訓(じくん 奈良興福寺の僧)に代わって
  少僧都(しょうそうず 律令制の僧官の位の一つ)に任じられ、
  764年には「太政大臣禅師」に任ぜられた。翌年には法王となり、
  仏教の理念に基づいた政策を推進した。
   対して、道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対する
  反感もあり、藤原氏らの不満が高まった。
  
  かくして、朝廷内で絶大な権力についた道鏡は、皇位をも狙うように
  なる。宇佐八幡宮神託事件である。
   権力を利用して、宇佐八幡宮に脅しをかけ、
  大宰主神(だざいのかんづかさ)の「中臣習宜阿曽麻呂(なかとみの
  すげのあそまろ)」が、「宇佐神宮より、道鏡天皇の位につければ、
  天下は泰平になる』との神託があった」と伝えた。
   しかし、『和気清麻呂(わけのきよまろ)』が勅使として参向し、
  この神託が“虚偽”であることを上申したため、道鏡皇位
  就くことはなかった。(危機一髪で、天皇家の血筋が守られた)

 


和気清麻呂(わけのきよまろ)】

  備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。

  神護景雲3年(769年)7月頃に宇佐八幡宮の神官を兼ねていた
  大宰府の主神(かんづかさ)・「中臣習宜阿曾麻呂(なかとみの
  すげのあそまろ)」が宇佐八幡神の神託として、
  『孝謙天皇が寵愛していた道鏡皇位に就かせれば天下太平になる』
  と奏上する。(道鏡が「習宜阿曾麻呂」を唆して託宣させたともされる)
   「孝謙上皇」は神託を確認するため、清麻呂に「宇佐八幡宮へ赴き
  神託を確認するよう」に勅した。
   清麻呂は出発にあたって、道鏡から、吉報をもたらせば官位を
  上げる(大臣に任官するとも)旨をもちかけられたという。
   だが、清麻呂道鏡の脅しに屈することなく、主君(天皇)のために、
  命令を果たす気持ちを固めて八幡宮に参宮する。
   清麻呂が宝物を奉り「宣命天皇の命令)」を読もうとした時、
  神が「禰宜(ねぎ)」の「辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)」に
  託宣、宣命を聞くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて
  与曽女(よそめ)に宣命を聞くように願い出て、与曽女が再び神に
  顕現を願うと、身の丈3丈(約9m)の満月のような形をした大神が
  出現する。清麻呂は与曽女とともに大神の神託
  「天の日継(ひつぎ 皇位継承の意)は、必ず帝の氏を継がしめむ。
  無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、
  孝謙上皇(後の称徳天皇)へ報告した。
   道鏡と「恋に落ちていた」孝謙上皇は、清麻呂の報告に怒り、
  清麻呂因幡員外介因幡の国)に左遷するが、さらに
  「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させて
  大隅国(現在の鹿児島県の大隅半島屋久島、種子島奄美大島などを
  含む西海道の一国)への流罪とした宇佐八幡宮神託事件
   さらに、「口封じ」のため、道鏡は配流途中の清麻呂を追って
  暗殺を試みたが、急に雷雨が発生して辺りが暗くなり、殺害実行の前に
  急に勅使が派遣されて企みは失敗したともいう。
 
  だが、この清麻呂の『命がけ』の意志と言動が朝廷内の家臣たちに伝わり、
  清麻呂が朝廷に持ち帰った『大神の神託』を再調査することとなる。

  神護景雲4年(770年)8月に称徳天皇孝謙上皇)」が崩御して
  後ろ楯を無くした道鏡が失脚すると、9月に清麻呂大隅国から
  呼び戻されて入京を許され、翌宝亀2年(771年)3月に従五位下に復位し、
  9月には播磨員外介に次いで豊前守に任ぜられて官界に復帰した。

  清麻呂楠木正成などとならぶ勤皇の忠臣と見なされている。

 

産経新聞は、皇統の断絶という日本最大の危機を救った人物と評したことも。

もしも「和気清麻呂」が当初の神託通り、「道鏡皇位につかすべし」と
いう報告を持ち帰っていたら・・・道鏡天皇が誕生し、
天皇家万世一系ではなくなってしまっていた、
いやそもそも天皇制そのものが崩壊していたかもしれない。


さらに、明治天皇たっての『強い要望』もあって、東京都千代田区大手町の
大手濠緑地(皇居のお堀のほとり、気象庁付近)に、
和気清麻呂(わけのきよまろ)」の銅像が建てられた。

 ※とくに、明治以降、女性天皇を禁じてきた『最大の理由』は、
  和気清麻呂が命がけで持ち帰った大神の神託にある。
  「天の日継(ひつぎ 皇位継承の意)は、必ず帝の氏を
  継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」

  『帝の氏』とは、日本人固有の遺伝子Y染色体にしか存在しない
  “Dの遺志”ともいわれるYAP遺伝子)のことでもある。
   (ゆえに、皇位継承者は、男系に限られる)

『日本人』として、この事実は知っておいてほしいと筆者も願うところである。

 

          ~ つづく ~

『聖徳太子』と『イエス・キリスト』

日本史を語る上で、この方を抜きには語れない存在・・・
そう、お待たせしました。聖徳太子の登場です!
 とは、言っても、ここでは、筆者の個性を「フルマックス」に
発揮して斬新な切り口で切り込んでいきます!

表題にもあるように、『イエス・キリスト』と『聖徳太子』には
意外な共通点が見られるので、ここでは、「ローマー皇帝」はじめと
する「西洋の王族」に都合よく編纂された『キリスト教』ではなく、
キリスト教』の聖典『聖書』から意図的に除外(外伝扱い)され
たであろう“おとぎ話”を中心に、筆者の持論
展開する(大河ドラマを楽しむ感じで)。

 

イエス・キリスト

  『イエス・キリスト』には「マグダラのマリア(別名:携香女
  (けいこうじょ)」という妻がいた
    ということは、子孫がいても不思議はない

  『空白の18年間』
    聖書によると、イエスが12歳でエルサレム神殿を訪れた後、
    30歳ころに伝道活動を始めるまでの“約18年間”の
    記録がない。(空白の18年間ともいわれる)
     日本の古文書竹内文書、宮下文書など)によれば、
    イエスは『天の浮船(あめのうきふね)』に乗って世界巡業を
    していたという記録もある。さらに、『天の浮船』⇒
    『テンクウ・フネ』⇒『テンク』⇒『テング(天狗)』に
    なったとの伝承もある。
     古文書によれば、インド、チベット、中国、日本各地、
    中南米(ホピ族、エスキモーなどのアメリカ原住民)を回り、
    『宇宙の真理』を説いていたとも・・・
     そして、妻がいたとなれば、巡業の地で『子孫』を残して
    いても不思議はない。

  磔刑(十字架)と「七」の意外な関係』
    イエス・キリストは、弟子のひとり「ユダ(ユダヤ人と称する
    南ユダ王国のユダ族の代表)」の裏切り行為によって、
    磔刑に処せられたのだが、この磔刑から『七』という漢字が
    誕生することになる。
     十字架「(十)」の縦棒の下からしたたれ落ちる
    との)が『七』になった。だから、もともとの
    『読み』も『ひち』であった。
     ところが、明治維新のときに「都(天皇のお住まい)」を
    「東()の都」(東京)に移した(遷都した)。
     くだらない“ダジャレ”と思われるかもしれなしが、この
    とき、関東を中心に、『七』(ち)⇒『七』(ち)と読む
    ようになった。(文字通り、都を『』に移したことによる)
     参考までに、江戸時代の「岡っ引き」が持っていた『十手』
    も『十』という字が使われているが、形状は、どう見ても
    『七』の方に似ている。これは、エス磔刑(十字架)に
    由来しているというのが、筆者の持論である。

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広隆寺とキリストの関係】

  広隆寺のルーツが景教(原始キリスト教新約聖書編纂前に伝え
  られたとされる。景教空海が開いた真言宗と関連性があると
  も。)にあるという根拠が、広隆寺が建立された場所(太秦=う
  ずまさ)にある。
   『日本書紀』によると、「秦酒公(はたのさけのきみ)」が
  朝廷に税を献上する際に、絹を“うず高く積み上げた”ことに
  感動した天皇が、「禹豆満佐=うずまさ」という姓を秦氏に与え
  たのが由来であり、それに秦氏の拠点(太)という意味で「太秦
  の漢字を当てたなどと言われている。
   そして、「太秦(うずまさ)」の意味は、ヘブライ語で解釈する
  と、「自らの命をささげて処刑されたメシヤ」の意味になるという。

 

聖徳太子

  聖徳太子は、厩戸前にて出生したので、厩戸皇子(うまやどのみこ、
  うまやどのおうじ)もしくは、厩戸王(うまやとおう)と呼ばれて
  いる、飛鳥時代の皇族・政治家。
   聖徳太子」は、後世の諡(おくりな)
    ⇒ イエスも「馬宿」で生まれたとされている。
  日本書紀によれば、聖徳太子は、「橘豊日皇子(たちばなとよひの
  おうじ)」と「穴穂部間人皇女((あなほべのはしひとのひめ
  みこ)」との間に生まれた。
  「橘豊日皇子」は「蘇我稲目(そがのいなめ)」の娘
蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)」を母とし、
穴穂部間人皇女」の母は同じく稲目の娘・「小姉君(おあねの
きみ)」であり、つまり厩戸皇子』は蘇我氏と強い血縁関係にあった。
蘇我氏と言えば、「蘇我馬子(そがのうまこ)」、読んで字の
ごとく、「われ、よみがえる、うまのこ」
 592年、日本初の女帝(女性天皇)と言われる推古天皇
皇位についたとき、皇太子となった厩戸皇子聖徳太子)』
蘇我馬子』が天皇を補佐した。

推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張の
なかで遣隋使を派遣するなど、中国の文化・制度を学び、
「冠位十二階」「十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした
中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を取り入れ神道ととも
に厚く信仰し興隆につとめたとされる。

   ・592年、摂津国難波(現在の大阪)に四天王寺を建立した。

   ・594年、『仏教興隆の詔』を発した。
     「厩戸皇子」は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)
     までに三経義疏を著した。

   ・603年、「冠位十二階」を定めた。
     氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、
     天皇の中央集」権を強める目的であったと言われる。

   ・604年、「十七条憲法を制定した。
     豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、
     仏法を敬うことを強調している。

   ・607年、屯倉(みやけ、朝廷の直轄地)を各国に設置する。
     高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、
     山背国栗隈に大溝を掘る。

   ・607年、小野妹子」を使者とし随に『国書』を送った。
     翌年、返礼の使者である「裴世清(はいせいせい)」が訪れた。
     「日本書紀」によると「裴世清」が携えた書には
     「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。
     これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の
     皇帝に敬まひて白す)とあり、隋が「倭皇」とした箇所を
     「天皇」としている。この返書と「裴世清」の帰国のため、
    妹子らを再び隋へ派遣した(遣隋使の始まり)。

      ※『国書』に書かれていたのは、有名な内容。
        「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。
        恙なきや。」
         ⇒ 当時の隋は大国であり、軍事力もあった。
           高句麗を攻め、領土にしようとしていた。
           「国として中国と対等な日本」にするという
           強い意志の表れで、国として独立するという
           「国づくりの方針」を示したもの。

 

  「豊聡耳(とよさとみみ)」

   「厩戸皇子」が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を
   開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が
   発した言葉を漏らさず一度で理解し、的確な答えを返したという。
    この故事に因み、これ以降皇子は「豊聡耳(とよさとみみ)」
   とも呼ばれるようになった。(10人は、『失われた10支族』とも)


  「兼知未然」

   『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて
   未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に
   「未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)」の存在が
   噂される一因となった。
    しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の
   架空の書か風聞の域を出ないものと言われている。江戸時代には、
   人心を惑わす偽書であるとして幕府により禁書とされ、
   編纂者の潮音らが処罰された『先代旧事本紀大成経』にある
   『未然本記』も未来記を模したものとみることができる。


  「出生について」

    「母・間人皇女(はしひとのひめみこ)は、西方の
    救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り、厩戸を
    身籠もった」(受胎告知)などの太子出生伝説に関して、
    「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教キリスト教
    ネストリウス派)が日本に伝わり、その中からイエス誕生の
    逸話が聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える
    研究者(久米邦武が代表例)もいる。
     しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が
    流入した影響と見なす説が主流である。
     出生地は橘寺(たちばなでら)、またはその付近とされる。
    橘寺は「田道間守(たぢまもり、菓子の神とも)」が
    「垂仁(すいにん)天皇」の御世に、常世の国から持ち帰った
    橘の実の種を植えた場所といわれる。


  四天王寺

    大阪市天王寺区。『日本書紀』によれば、蘇我氏物部氏の戦いに
    おいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、四天王を
    安置する寺院を建てると誓願を立てた。
     見事勝利したので、摂津国難波に四天王寺を建てた。
    なお、聖徳太子の佩刀(はいとう)とされる「七星剣」と
    「丙子椒林剣(へいししょうりんけん)」が現在、四天王寺
    保管されている。
     本尊は救世観音で、四天王寺では聖徳太子の念持仏の
    「如意輪観音(にょいりんかんのん)」とも同一視される。
    

  法隆寺

    奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺は「用明(ようめい)天皇」が
    自らの病気平癒のため建立を発願したが、志を遂げずに崩御
    したため、遺志を継いだ推古天皇聖徳太子が、
     推古天皇15年(607年)に寺と薬師像を造ったという。
    『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したとの
    記事がある。この記事をめぐり、現存する法隆寺(西院伽藍)は、
    聖徳太子の時代のものか、天智天皇9年(670年)以降の再建かに
    ついて長い論争があったが、「若草伽藍(わかくさがらん)」の
    発掘調査により、聖徳太子時代の伽藍(がらん=寺院の建物の
    こと)は一度焼失し、現存の西院伽藍は7世紀末頃の再建である
    ことが定説となっている。
     「夢殿」を中心とする東院伽藍は太子の営んだ「斑鳩宮(い
    かるがのみや)」の旧地に建てられている。

     ※再建であっても、「西院伽藍」は現存する世界最古の
      木造建築物群。


  「大工の祖」

    聖徳太子は大工の祖だとされている。
     現存世界最古の木造建築物を有する法隆寺奈良県斑鳩町)などを
    建立したことや、大工道具・曲尺(かねじゃく。矩尺)を広めたこと
    などが、その理由とされている。(世界的に有名な秘密結社との
    関連もささやかれている・・・)

     ⇒ 「キリスト」も大工であった。
        (「マタイの福音書」と「マルコの福音書」に、
        「郷里の人々の言葉」として書かれている。)


聖徳太子の後、『大化の改新』~『白村江の戦い』を経て、
天智天皇天武天皇持統天皇によって、「倭国から日本に」大変革を遂げ、
日本の政治基盤の確立につながっていった。
 しかしながら、この後も皇位継承や権力をめぐる闘争が断続的に続き、
預言者道鏡」も現れ、皇室の危機を救う英雄が
登場する『ドラマ』も実在した。

 

 

       ~ つづく ~

 

大化の改新 ②

【改新の第三段階】

  翌大化2年(646年)正月には、新政権の方針を大きく4か条に
  まとめた「改新の詔」も発布された。
  改新の詔は、ヤマト政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を
  廃止し、天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容と
  なっている。

  ※「改新の詔」
     日本の飛鳥時代中期の大化の改新において、
     新たな施政方針を示すために発せられた詔。
      難波長柄豊碕宮で発せられたとされる。
     この詔は『日本書紀』に掲載されている。

   第1条 
    天皇・王族や豪族たちによる土地・人民の所有
    廃止するものである。
    ⇒ 土地・人民に対する私的な所有・支配を排除し、
      天皇による統一的な支配体制への転換。

   第2条
    政治の中枢となる首都の設置、畿内・国・郡といった
    地方行政組織の整備とその境界画定、中央と地方を
    結ぶ駅伝制の確立などについて定めるものである。
    ⇒ 次に挙げられる地方行政組織の整備は、畿内
      国(令制国)・郡の設置が主要事項だった。
      畿内とは、東西南北の四至により画される範囲をいい、
      当時、畿内令制国は置かれなかった。
      後の天智天皇の頃にようやく令制国が画定することと
      なった。

   第3条
    戸籍・計帳という人民支配方式と、班田収授法という
    土地制度について定めている。
    ⇒ 大化当時に戸籍・計帳の作成や班田収授法の施行は
      実施されなかったが、何らかの人民把握(戸口調査
      など)が実施されただろうと考えられている。

   第4条
    新しい税制の方向性を示す条文である。
    ⇒ ここに示される田の調とは、田地面積に応じて賦課
      される租税であり、後の律令制における田租の前身に
      当たるものと見られている。


  『大化の改新』には、「遣唐使」の持ってきた情報をもとに
  「唐の官僚制」と「儒教」を積極的に受容した部分が見られる。
  しかしながら、従来の氏族制度を一挙に改変することは現実的では
  ないため、日本流にかなり変更しながら適用されていった。

  政治制度の改革が進められる一方で、外交面では
  「高向玄理(たかむこのくろまろ)」を新羅へ派遣して人質を
  取る代わりに、すでに形骸化していた「任那(みまな)の調」を
  廃止して朝鮮三国(高句麗百済新羅)との外交問題を整理して
  緊張を和らげた。唐へは遣唐使を派遣して友好関係を保ちつつ、
  中華文明の先進的な法制度や文化の輸入に努めた。
  また、越に渟足柵(ぬたりのさく)磐舟柵(いわふねさく)
  設けて、東北地方の蝦夷に備えた(日本国内も内乱が続いていた)。

  ただ、改革は決して順調とは言えなかった。大化4年(648年)の
  冠位十三階の施行の際に左右両大臣が新制の冠の着用を拒んだと
  『日本書紀』にあることがそれを物語っている。
  
  ※渟足柵(ぬたりのさく)と磐舟柵(いわふねさく)
    大化3年(647年)には、渟足柵(新潟県新潟市東区辺り)
    が造られて柵戸も置かれ、翌大化4年(648年)には
    磐舟柵(新潟県村上市岩船辺り)が設置され蝦夷に備えた。

 

【諸制度の改革】

  ・薄葬令(はくそうれい)
    今まで陵墓は自由に作ることができたが、作ることの出来る
    陵墓を身分に合わせて規定し直した。殉死の禁止や、
    天皇陵の造営に費やす時間を7日以内に制限するなど、
    さまざまな合理化・簡素化が進められた。
    この薄葬令によって事実上、古墳時代は終わりを告げることに
    なる。

  ・習俗の改革
    男女の法の整理、交通問題の解決

  ・伴造、品部の廃止と八省百官の制定
    従来の世襲制の役職であった伴造や品部を廃止し、特定の氏族が
    特定の役職を世襲する制度を廃止した(たとえば、物部氏
    あれば軍事を司り、中臣氏であれば祭祀を司る、など)。
    これと八省百官の制定によって、より能力主義的な官僚制への
    移行が行われた(しかし祭祀などの面では、中臣氏がこれを行う
    というように世襲制が残った役職もあったようである)。

  ・大臣、大連の廃止
    大臣・大連は、廃止になり、代わりに太政官が置かれ、左大臣
    右大臣に置き換わった。大臣は臣の姓(かばね)から、
    大連は連の姓から出されることになっていたが、左大臣・右大臣
    (後に付け加わる太政大臣)などでは、臣・連の制約が無く
    なった。

  ・冠位制度の改訂
    聖徳太子の制定した冠位十二階を改定し、
    大化3年(647年)冠位十三階→大化5年(649年)十九階→
    天智3年(664年)二十六階へと改めた。
     これは従来、冠位十二階に含まれなかった、大臣・
    大連などを輩出する有力氏族を冠位制度へ組み込み、
    天皇を頂点とした中央集権的な序列をつける為の改革だと
    思われる。冠位の数が年々増加していったのは、
    膨大な人員を必要とする官僚制への切り替えにより、
    行政実務を担う下級官僚に与える冠位が不足したからと
    推測できる。

  ・礼法の策定
    職位に応じた冠、衣服、礼儀作法を制定した。冠位により
    身につけることの出来る衣服や礼法が決められた。
    冠位のない一般の良民は白い衣を身につける事とされ、
    これは白丁と呼ばれた。

  さらに、『白村江の戦い』で「唐・新羅の連合軍」に大敗を喫した後、
  百済高句麗は滅亡した。
   日本も朝鮮半島への足掛かりを失うばかりでなく、逆に
  大国である唐の脅威にさらされることとなった。
   中大兄皇子筑前対馬など各地に水城を築いて、
  防人や烽(のろし)を設置し、大陸勢力の侵攻に備えて
  「東の大津宮(おおみ・おおつのみや)」に遷都する一方、
  部曲(かきべ、古代の私有民や私兵などの身分のこと)を
  復活させて地方豪族との融和を図るなど、国土防衛を中心とした
  国内制度の整備に注力することになる。
   中大兄皇子は数年間称制を続けた後に、668年に即位した(天智天皇)。
  670年に新たな戸籍(庚午年籍)を作り、671年には初めての
  律令法典である近江令を施行している。
   以下は、『白村江の戦い』後の日本の外交をまとめたもの。

 

【戦後交渉および唐との友好関係の樹立】

  665年に唐のの「劉徳高(りゅう とくこう、唐の官吏)」が戦後
  処理の使節として来日し、3ヶ月後に「劉徳高」は帰国した。
   この唐使を送るため、倭国(日本)側は「守大石(もりのおお
  いわ、景行天皇皇子の「大碓命(おおうすのみこと)」の後裔を
  称する美濃国の豪族)らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。
   667年には、唐の百済鎮将「劉仁願(りゅうじんき、唐の武将)」が、
  熊津都督府(ゆうしんととくふ、唐が百済を占領後に置いた
  5都督府のひとつ)の役人に命じて、日本側の捕虜を
  「筑紫都督府(大宰府の唐風の名称)」に送ってきた。
   「天智天皇」は、唐との関係の正常化を図り、669年に
  「河内鯨(かわちのくじら、持統天皇のとき大学博士となり、
  儒学をおしえたともいわれる)」らを正式な遣唐使として派遣した。
   百済の影響下にあった「耽羅(たんら、済州島に存在した王国)」も
  戦後、唐に使節を送っており、倭国百済側として何らかの関与を
  したものと推定される。
   670年頃には唐が倭国を討伐するとの「噂」が広まっていたため、
  遣唐使の目的の一つには「噂」を確かめる為に唐の国内情勢を
  探ろうとする意図があったと考えられている。
   


【捕虜の帰還】

  684年(天武13年)、「猪使連子首(いつかいのむらじこびと)」・
  「筑紫三宅連得許(つくしのみやけのむらじとくこ)」が、
  遣唐留学生であった「土師宿禰甥(はじのすくねおい)」・「白猪史
  宝然(しらいのふびとほね)」らとともに、新羅経由で帰国したのが、
  記録に現れる最初の『白村江の戦い』における捕虜帰還である。

   690年(持統4年)、持統天皇は、筑後国上陽咩郡(かみつやぐん)の
  住人大伴部博麻(おおともべのはかま)」に対して、
  「百済救援の役で、あなたは唐の抑留捕虜とされた。その後、
  土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、
  筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)、弓削連元宝(ゆげのむら
  じげんぽう)の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上し
  たいが帰れないことを憂えた。その時あなたは、「土師連富杼(は
  じのむらじほど)」らに『私を奴隷に売り、その金で帰朝し奏上し
  てほしい』と言った。そのため、「筑紫君薩夜麻」や「土師連富杼」
  らは日本へ帰り奏上できたが、あなたはひとり30年近くも唐に留まった
  後に、やっと帰ることが出来た。わたしは、あなたが朝廷を尊び、
  国へ忠誠を示したことを喜ぶ」と詔して表彰し、
  「大伴部博麻」の一族に土地などの褒美を与えた。

 

【防衛体制の整備】

  白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇
  防衛網の再構築および強化に着手した。
   百済帰化人の協力の下、対馬や北部九州の大宰府水城(みずき)
  瀬戸内海沿いの西日本各地(長門、屋嶋城、岡山など)に
  朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には
  防人(さきもり)を配備した。さらに、667年に天智天皇は都を
  難波から内陸の「近江京」へ移し、ここに防衛体制は完成を見た。

 

【中央集権体制への移行と国号の変更】

  671年に天智天皇が急死すると、その後、
  皇位に就いた天武天皇は、専制的な統治体制を備えた新たな国家の
  建設に努めた。
   天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承され、
  701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、
  大陸に倣った中央集権国家の建設はひとまず完了した。

 

百済遺民の四散】

  天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)「鬼室福信
  (きしつ ふくしん、百済の王族)」の功により、その縁者である
  「鬼室集斯(きしつ しゅうし)」は「小錦下の位(冠位の一つ)」を
  授けられた(近江国蒲生郡(がもうぐん)に送られる)。
   百済王の一族、「豊璋王(ふよ ほうしょう、百済最後の王子)」の
  弟・「善光(ぜんこう)」は、朝廷から百済王(くだらのこにきし)」
  という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。

  ⇒ 後々、天皇(皇族)は、百済王の子孫という論調を展開し、
    以後の日本の歴史にも様々な影響(支障、謀反、反乱)が
    出てくることになる。
     皇族は「百済(くだら)と血縁関係がない」ことを、今も
    使われる言葉に残っている。『く・だ・ら・ね・え』

    そして、明治維新の立役者の一人でもあり、
    初代総理大臣となった「伊藤博文」も歴史を学んでいた。
    だからこそ、最後まで「朝鮮半島を統治下に置く、朝鮮併合」に
    反対した。


天智天皇天武天皇持統天皇までの3代にわたって、
大化の改新』~『白村江の戦い』を経て、
倭国から日本に大変革を遂げる壮大なドラマが、
かつての日本の歴史に、確かに存在した。

もし、『白村江の戦い』での敗戦で、
国策を誤ったら(というか現在のような弱腰外交を続けていたら)、
日本は消滅していた可能性がある
 おそらく、戦後、象徴となってからは政治的発言権が
なくなった「昭和天皇」の胸中は複雑だったのでは・・・

朝鮮半島に於ける敗戦の後、国内体制整備の為、天智天皇
大化の改新を断行され、その際、思い切った唐制の採用があった。
これを範として今後大いに努力してもらいたし。」

昭和天皇のお言葉である。

『温故知新』というように、過去の歴史(ねつ造ではなく真実)を
学ぶことが、いかに大事なことであるか?
 現在も、『白村江の戦い』と同様な戦後処理が続いている

 


        ~ つづく ~