『臣籍降下』と『源平』の誕生

臣籍降下
  
  臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、
  姓(かばね)を与えられて臣下の籍に降りることをいう。
   皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は、
  「臣籍降嫁(しんせきこうか)」とも言った。

  奈良時代の皇統(天皇の血筋)を教訓道鏡による「宇佐八幡宮
  神託事件」)として、平安時代には安定した皇位継承のため、
  多くの皇子をもうけることがよく行われた。
   しかし、実際に皇位継承できる皇子はごく少数に限られ、
  平安前期から中期にかけて、皇位継承の道を閉ざされた皇族が
  多数発生することとなった。また、皇親の中には国家の厚遇に
  かこつけて問題を起こす者もいた。
   これらの皇親に対しても、律令の定めにより一定の所得が
  与えられることで財政を圧迫する要因となったため、皇位継承
  可能性がなくなった皇親たちに姓を与えて、臣籍降下させる
  皇親賜姓(こうしんしせい)」が行われるようになった。

  特に桓武天皇は、一世皇親3名を含む100名余りに対して姓を与えて
  臣籍降下を行った。嵯峨天皇も多くの子女を儲けたが、父の例に
  倣って多くの子女に対して皇親賜姓を行った。
   臣籍降下して一、二代ほどは上流貴族として朝廷での地位を
  保証されたが、実際には三代以降はほとんどが没落して、
  地方に下向、そのまま土着し武士・豪族となるしかなかった。


  ≪与えられる氏姓≫

    臣籍に降下する皇族には、臣下であることを表す氏及び
    姓(かばね)が与えられる。

    『源氏』嵯峨天皇が、814年に自らの皇子3名に皇親賜姓を行い、
    『源氏』を授けたことに始まる。
     これは「魏書」の「源賀伝」に記録がある。
    嵯峨天皇は最終的には皇子・皇女32名を臣籍降下させ、
    源信(げんしん 天台宗の僧侶)、
    源常(みなもとのときわ 左大臣)、
    源融(みなもとのとおる 光源氏のモデルとも)が誕生する。
     また、源潔姫(みなもとのきよひめ 清和天皇の外祖母)は、
    人臣最初の摂政となった藤原良房(ふじわらのよしふさ 左大臣)の
    正室となった。

    一方、平氏は、淳和(じゅんな)天皇の時代の825年に
    桓武(かんむ)天皇第5皇子「葛原親王(かずらわらしんのう)」の
    子女(二世王に相当)に平氏を賜ったことに始まる。
     これは桓武天皇が築いた平安京にちなんだ氏である。

    ※これゆえ、源氏を「清和源氏平氏を「桓武平氏
     呼ぶこともある。

    なお、臣籍降下に際して、王の身位は当然に除かれるとは言え、
    名は改めないのが通常であるが、葛城王(かずらきのおおきみ)から
    「橘諸兄(たちばなのもろえ 後に朝臣(あそん)の姓を賜る)」
    などのように改める事例もある。


  このように『臣籍降下』によって、藤原氏と合わせて、
  後の政治の中枢を担う4大貴族源平藤橘が誕生した。

  この「源平藤橘」は、とくに平安時代から現在に至るまで、
  皇室も含めて、互いの血筋を絶やさぬように「養子縁組」
  「婿養子」「許嫁(いいなずけ)」などを繰り返してきた。
   ⇒ 4大貴族「源平藤橘」の末裔も、皇族も『同族結婚』を
     繰り返してきた閨閥(けいばつ)」である。

  このようにして、皇族を含む、貴族「源平藤橘」の血筋は、
  現在まで受け継がれ、守られてきた。

 

          ~ つづく ~